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大東亜戦争とは

第二次世界大戦

大東亜戦争

大東亜戦争という呼称について

1941年12月8日、ハワイオアフ島の真珠湾にあった米海軍太平洋艦隊基地および、マレー半島への上陸作戦が開始され、「大東亜戦争」が開始されました。

戦後、この戦争について学校で「太平洋戦争(The Pacific War)」と教わりました。
現在、日本と米国では、その名称が使われています。

西欧で太平洋戦争と言えば、1879年から1884年にかけて、南米のボリビアとペルーが、チリとの間で行った戦争のことを指します。イギリスでは、大東亜戦争のことを「対日戦争(War with Japan)」呼んでいます。

名称というのは大事で、このサイトでも取り扱っている「インパール作戦」もそうですが、その戦いが何を意味するかを明確にあらわすからです。

ちなみに日本においての正式名称は、今も昔も「大東亜戦争」です。「太平洋戦争」という正式名称は存在しません。

「大東亜戦争」という呼称には、「大東亜新秩序建設」、「東亜のみを限定したものでなく、アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものである」という意味が込められています。

終戦後日本を占領していた、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が、日本国内から軍国主義や全体主義などの考えを排除するため政策の一つとして、神道指令という政策を日本に行いました。
これにより、「大東亜戦争」の言葉は大東亜共栄圏など当時の日本政府の思想を反映したものであるとしてGHQにより使用が禁止され、公文書で使用できなくなりました。

今日アメリカが使う「太平洋戦争」の呼称は、正式な世界史も歪曲して、対日戦争を日本の侵略戦争だと正当化するためにねつ造したデッチ上げの呼称である。

アメリカとの対立に至るまで

桂ハリマン仮条約破棄

日露戦争の勝利によって、日本の連合艦隊に対抗する艦隊を太平洋に持っていないアメリカは日本に恐怖を抱くようになります。

その後のポーツマス条約により、日本は満州の長春から旅順までの鉄道などの権益を得ます。
そして日本は南満洲鉄道株式会社(満鉄)を設立する。

満鉄は鉄鉱、製鉄、電力、港湾、倉庫など、さまざまな関連事業を行い、軍事、経済の両面で日本の満洲経営の柱になっていきます。

アメリカの鉄道王・ハリマンは、進展の可能性のある南満州鉄道に目をつけ、日本に満州の鉄道の共同経営を持ちかけてきます。
ハリマンは世界一周鉄道を作る構想を持っていました。

ロシアの復讐などに警戒した桂首相はハリマンと仮条約を交わします。
しかし、外相の小村寿太郎がポーツマス条約の調印を終えてアメリカから帰国すると、この仮契約に猛烈に反対し、仮契約を取り消します。

アメリカは支那大陸に進出したいと考えていたが、日本がこれを独占してしまうのではないかと恐れ、次第に日本が邪魔な存在になっていきます。

オレンジ計画

20世紀初頭にセオドア・ルーズベルト政権は軍部に対し、近い将来に国際戦略で利害が対立するであろうと予想される国々との戦争シミュレーションを立案させた。

軍部は仮想敵国を色で区分しそれぞれとの戦争作戦を立案した。これは「カラープラン」といわれるが、日本は色が「オレンジ」に区分されたことから「オレンジ計画」の名が付けられた。
アメリカは日本を仮想敵国として想定し始めます。日本を打破する具体的な戦術が盛り込まれたのである。

太平洋に艦隊を作り始める。また、支那大陸において、反日運動を煽り始めます。

デマ拡散

サンフランシスコで大地震が起こり、日本は見舞金50万円(10数億円相当)を送るが、反日は進み、アメリカの新聞などで「日本軍がハワイに上陸した」「日本がメキシコと同盟を組んだ」「日本がアメリカに最後通牒を送った」といったデマのニュースを流しはじめます。

そして、サンフランシスコ市教育委員会が日本人、朝鮮人学童の隔離教育を決定します(後に撤回)。
その上、サンフランシスコで反日暴動起こり、多くの日本人が殺傷されます。

日米紳士協定、白船事件

1908年に日米紳士協定を結びます。
これにより、日本は自主的にアメリカへの移民を禁止し、アメリカは排日的な移民法を作らないと約束します。

また、同じ年にアメリカは大西洋の艦隊を終結して、日本に訪問させて自軍の海軍力を誇示したりしている(1908年3月、白船事件)。
ペリーの黒船と同じことをしてきます。立場が逆ならここで戦争になっていてもおかしくない行為ですが、日本は我慢します。

アメリカはこれを攻撃すれば、日本と戦争になると威嚇してきたが、日本政府は白船歓迎作戦に出て何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコに返っている。

満洲鉄道中立化提案

支那大陸への進出を諦めきれないアメリカは、1909年11月に全満州鉄道の中立化を提案します。
一企業家である鉄道王・ハリマンでなく、国務長官のノックスが満州に介入してきたのである。

日本とロシアが持つ利権をアメリカが横取りしようとしますが、日本とロシアが反対し、イギリス・フランスも日本とロシアの立場を優先すべきとして同意しなかったため、この提案は葬り去られます。

これ以外にもアメリカは、清国に働きかけて何とか利権を得たいと運動をしていたが、それらはどれも失敗し、彼らのフラストレーションは募る一方だった。

そして、その不満の矛先は、太平洋を隔てて隣り合う日本に向けられることになっていく。

紳士協定破棄

1913年に、アメリカは日米紳士協定を破棄し、カリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止し、借地期間を3ヵ年に制限する法案を可決します(第一次排日土地法)

ブライアン不承認主義、「対華21ヶ条」の要求

1915年に日本と支那の間に日華条約が結ばれます。
日本は第一次世界大戦の勝利によって、旧ドイツ領の青島(支那・山東省)を占領します。

これに対して、支那は青島からの撤退を求めた為に、日本は支那にその利益の代償を求めます。
日本は14ヶ条の「要求」と7ヶ条の「希望」、計21ヶ条の承諾を支那政府に要求した。

この21ヶ条は孫文の日中盟約案を原案として作成されたものである(袁世凱と対立していた孫文は革命支援を得るため利権譲渡の密約「日中盟約」を結んでいた)。

4ヶ月にわたる困難な交渉の末、最初の21ヶ条に修正を加えた16ヶ条を支那側が受諾し、「日華条約」として調印された。
内容は、「山東省の権益を日本に引き継ぐ」、「旅順・大連租借と満鉄等の租借期限延長 」、「満洲・蒙古での日本人の居住営業・土地所有」、「鉄鉱石輸出・石炭輸入」、「支那沿岸を他国に譲渡しないこと」です。

これは、ポーツマス条約や日清戦争・日露戦争で得た満州における元々持っていた権益を、支那に対して確固とする為の要求でした。特に新しい権益を要求したものではありませんでした。

このときに日本は領土権も駐兵権も要求していない。つまり、日本はいわば日本の国家的膨張や安全というよりは、日本人が生存していくための権益を確固たらしめようとしただけである。
これらはそれ以前に欧米列強が持っていた権益よりも温和なもので、ごく適切な要求だった。

イギリス、フランス、ロシアは、要求の内容は妥当だとして干渉を控えている。
そこへ猛烈な非難攻撃を繰り広げたのがアメリカだった。

日華条約に関係ないアメリカの国務長官・ブライアンは日華両国に「支那の政治的領土的保全及び門戸開放主義に関するいかなる協定も承認せず」と通告した。
これがその後「不承認主義」として有名になった門戸開放主義に立つアメリカの極東政策の先駆けである。

アメリカ政府はここぞとばかりに支那支援を表明し、アメリカ系の新聞も、こぞって日本を非難した。

支那の袁世凱も合意した内容を歪曲して内外に宣伝します。
内容は「南満州の警察と行政権を日本に譲渡 」、「支那陸海軍は必ず日本人を教官とする 」、「支那の学校では必ず日本語を教える 」、「支那に内乱がある場合は日本に武力援助を求める 」、「支那の石油特権を譲与する」、「支那全部を解放し日本人に自由に営業させる 」と言ったものです。

結局、アメリカは支那と組んで「日本が21もの不当な要求を第一次世界大戦のどさくさにまぎれて支那にしぶしぶ受諾させた」という印象を世界中に植え付けることに成功します。

このプロパガンダには支那にいるアメリカの宣教師も加担していた。
さらに袁世凱政府は日華条約調印直後に、「日本人に土地を貸した者は死刑」という条例を交付した。

これは国際条約の調印と同時に、法令をもって条約の履行を妨害するという考えられない行為です。
合意された16ヶ条は、アメリカの策略の一つであるワシントン会議により、日本は山東省の権益を返還、満蒙での鉄道に関する優先権を放棄、「希望条項」も全面撤回させられ、残存は10か条のみになる。

米国移民法制定(1917年)、パリ講和会議(1919年)、第二次排日土地法成立(1920年)

アメリカは全アジア地域からの移民を排斥する米国移民法制定します。
しかし、日本からの抗議により、日本は取り除かれます。

日本は国際連盟の規約に「人種差別撤廃条項」を入れることを提案したが、アメリカ大統領のウィルソンがつぶします。
かえって日本への敵愾心を強め、排日運動を激化させます。

また、カリフォルニア州で日本人の借地権も禁じる法案が可決。今度は日本人移民の子供まで土地所有が禁止されてしまった。

同様の法案は1924年までに10を超える州で成立します。

ワシントン会議(1921年から1922年)

アメリカは第一次世界大戦後の世界の体制をアメリカ主導で作りなおそうと考え、大艦隊計画を立てて動き出していた。

それに対して、日本もイギリスも大規模な海軍の拡張計画を立てざるをえなくなったのだが、アメリカ自身が巨大すぎる軍拡計画に参ってしまい、各国間の建艦競争を抑えたくなります。

このような思惑からアメリカが各国に提唱して開かれたのがワシントン会議である。自分が始めたことを自分でやめようとアメリカは言い出します。

形の上では、アメリカ、日本、イギリス、フランス、イタリアの五ヶ国会議であるが、実質的には日英米の三ヶ国会議でした。
この会議でアメリカは「日本の太平洋進出を抑える」、「日英同盟の終了」、「支那における”門戸開放”明文化、日本の特殊権益否認(九ヶ国条約)」に成功します。

主力戦艦の保有比率を米:英:日で5:5:3に確定し、太平洋前線基地を現状維持とします。しかし、なぜかハワイとシンガポールは除かれるという、不平等なものでした。

また、9か国条約はすべてが支那に関することで、以前に「石井・ランシング協定(1917年)」で結んだ日本の支那での権益を無視したもので、支那での権益がどの国も平等なものになってしまいます。

そして、細かいもめごとが支那大陸で起こるたびに、この九ヶ国条約が引き合いに出され、日本非難の根拠に使われてしまいます。

そして最大のインチキは欧米の植民地はそのままにしておいて新たな植民地は作ってはいけないということになってしまったことである。

アメリカはその後、満州事変、支那事変などでの日本の行動をことごとく不承認し、日本の諸権益を否定しつつ、蒋介石政権を経済的・軍事的に支援し続けることになる。

日本は何も悪いことはしていないのに、第一次世界大戦で得たものをすべて強制的に吐き出されます。

また、ソ連はこのワシントン会議に参加することもなく、つまり九ヶ国条約に制約されることなく自由にアジアを侵略することができました。

日本人排除

1922年にアメリカの最高裁が、「黄色人(つまり日本人)は帰化不能外国人であり、帰化権はない」という人種差別丸出しの判決を出します。
すでに帰化した日本人の権利まで剥奪できるとした。

第一次世界大戦でアメリカ兵として従軍した日本人移民まで帰化権を剥奪される。
1924年には絶対的排日移民法が成立し、アメリカは国家として日本人移民を拒否することになります。

支那事変

近年反日マスコミなどによって「日中戦争」と呼ばれだしたものである(最近では一般化している)。

1937年7月7日に盧溝橋付近に駐屯していた日本軍(支那駐屯軍)に支那の共産分子が銃撃を行なったことから盧溝橋事件が勃発します。

日本政府は2日後の閣議で不拡大、現地解決の方針を確認、いったん決めた内地からの三個師団派遣も凍結させるなど慎重姿勢を貫きます。

7月11日には北平(北京の当時の名称)で、現地停戦協定が結ばれた。
しかし、支那国民政府の蒋介石は、支那国民に日本への徹底抗戦を呼びかけます。

そして、7月25日には郎坊事件、26日には広安門事件という、いずれも支那軍が日本軍を一方的に攻撃する事件が起きます。

これを機に日本政府は不拡大の方針を撤回、留保していた内地三個師団の派遣を命じた。

支那があまりにも停戦協定を破るので、支那に対して最後通告を出して戦闘を始めます(7月28日)。

支那駐屯軍は宗哲元率いる第29軍への総攻撃を開始した。
するとそれまで日本を挑発していた支那軍はあっという間に北京、点新築を放棄して南の方へ逃げてしまう。日本軍はわずか1日あまりで北京・天津地区を平定します。

そして、7月29日には天皇陛下の提案により、和平案を作成します。

ところが、7月29日、北京東方の通州で、支那の保安隊が在留日本人を襲い、軍人や民間の女性、子供を含め280人を虐殺する虐殺事件(通州事件)が起きます。
これが、相当ひどい虐殺で、この時の被害者の日本人の写真が、日本が支那人に対して行った虐殺として逆に出回っていることが多い事件です。

さらに、8月9日には上海で、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉ら2人が支那の保安隊に射殺される事件が起きます。

これで、和平工作は挫折し、13日には支那便衣隊との間で激しい戦闘となった(第二次上海事変)。

蒋介石政府が敵対関係にあった支那共産党とも手を結んで抗戦姿勢を強め、8月15日には、支那国民党政府が対日抗戦の総動員令を発令した。

これに対し日本政府も同日、国民政府への「断固膺懲(ようちょう、「懲らしめる」の意)の声明を出し、日本と支那は抜き差しならない全面戦争へと突入します。

華北から華中、華南へと展開していた日本軍は1937年12月10日、国民政府のあった南京を攻撃、13日には陥落させた。

日本は支那政府の首都を落とすことで蒋介石は講和に応じると思っていたが、すでに南京を放棄していた蒋介石は四川省の山奥にある重慶に国民政府の拠点を移し、さらに徹底抗戦を続けた。

この間、国際的にはアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが「好戦分子は、伝染病患者のごとく隔離されなければならない」と、日本などを批判する隔離演説を行い、アメリカは支那国民党を支持するようになり、ソ連も国際連盟での席で日本を非難した。

第二次近衛声明

1938年11月3日、近衛文麿首相は「第二次近衛声明」ともいわれる声明を発表します。この声明は「東亜新秩序」を謳ったもので、「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」が支那出兵の目的であると述べ、「新秩序」とは支那事変後の東アジアのあり方として、日本・満洲・支那3国の提携により東亜に防共、経済統合を実現しようとすることであるとした。

「東亜新秩序」という言葉が使われた最初であり、のちの「大東亜共栄圏」構想の出発点である。
さらに新秩序建設への支那国民政府の参加を呼びかけます。

しかし、アメリカのコーデル・ハル国務長官は、それは九ヶ国条約に反すると反論します。この時から、アメリカは蒋介石政権を公然と支援するようになります。

天津英租界封鎖(1939年6月)

1939年4月、中華民国臨時政府によって任命された海関監督が転身のイギリス租界内で暗殺される事件が発生します。

その犯人の引き渡しをイギリス側が拒否したため、日本現地軍は6月14日から英仏租界を封鎖する事態となった。

天津の英仏租界は国民党特殊工作機関及び共産党抗日分子の隠れ家となっていました。

この背景には、支那事変勃発以来、イギリスが陰に陽に支那を援護し、日本を過度に非難する傾向があり、それが日本軍の作戦に多大の不利を与え、日本軍の対英感情も相当悪化していた事情があった。

7月に入って、有田・クレーギー会談が開かれた結果、イギリス側が支那における日支交戦の現実を承認し、日本軍に対する利敵行為を排除する必要を認める旨の協定が成立してこの問題は決着します。

イギリスの対日融和姿勢に不満を持ったアメリカは突如、日米通商航海条約の一方的な廃棄を日本に通告します。

日本は、アメリカと暫定協定締結を試みるが成功せず、アメリカとは無条約となります。

そして、アメリカ主力艦隊を突如、大西洋からハワイへ移駐させます。
また、フィリピンの海空軍勢力を増強しつつ、600件に上ると称する在支那米人権益の侵害事件の解決を日本に迫ってくるなど、アメリカの対日姿勢は一段と強硬の度を加えてきます。

南京国民政府樹立

当時、日本軍占領下の北支(おおむね河北、山東、山西省)には中華民国臨時政府、中支(おおむね江蘇、安徽省)には中華民国維新政府が存在したが、汪兆銘はこの両政権と協議を遂げた上、日本との「善隣友好、共同防共、経済提携」を掲げ、南京に中華民国国民政府(新政府)を樹立した。

新政府の創設ではなく国民政府の「南京への遷都」の形をとった。
中華民国臨時・維新両政府はこの中央政府に吸収された。

もちろん日本は汪兆銘政権を支持したが、汪兆銘も日本政府も、蒋介石を主席として迎える余地を残すために汪兆銘を主席ではなく主席代理とし、重慶に逃げた蒋介石との和平工作の努力を続けた。

新政府が樹立されたその日、アメリカの国務長官・コーデル・ハルは汪政権樹立を非難し、アメリカは依然として重慶政府を支那政府と認める旨の声明を発表した。
重慶国民政府との交渉は成立せず、日本は汪兆銘政権を正式に承認することになる。

アメリカによる対日圧力

1940年3月には蒋介石にさらに2000万ドルの借款供与。7月には、軍需資材輸出許可制公布。
同月、アメリカはイギリスと対日石油禁輸謀議。
9月にはアメリカは日仏協定(北部仏印進駐)不承認声明を出す。

同月、全等級の屑鉄、屑鋼の対日輸出を禁止する方針を発表、蒋介石にさらに2500万ドルの借款供与。
10月には、東アジア在住婦女子の引き上げを勧告(戦争を予期した措置)。

同月、松岡・アンリ協定(北部仏印進駐の合法的協定)を認めず、全等級の屑鉄、屑鋼の対日輸出禁止方針発表、同じ日に選抜徴兵法がアメリカで成立、同月19日には、アメリカで陸軍に80万人が徴集される、

名古屋領事館閉鎖。

23日にフィリピン海軍を強化する用意ありと言明する。

そして、11月末には、汪兆銘政権承認した日華基本条約の否認声明を出し、蒋介石に1億ドルの借款供与を発表。 フライングタイガース派遣 (アメリカ空軍200人が日本軍を支那軍のふりをして攻撃)。

日米諒解案

日本は、行き詰った対米関係を打開するため、ルーズベルトと多年知己の関係にある野村吉三郎海軍大将を駐米大使に任命。

このように悪化した日米関係を好転させ、支那事変解決を促進する目的で、1941年春から日米交渉が開始。

日米の主張を折衷して「日米諒解案」と呼ばれる一案を作成し、コーデル・ハル国務長官に提案したところ、ハルは「四原則」なるものを手交し、日本側がこの四原則を受諾し、諒解案を正式に提案するなら会談を始める基礎としてもよいと述べます。

これに喜んだ日本政府は4原則を歓迎します。
しかし、松岡外相は、「アメリカは第一次世界(欧州)大戦中、石井・ランシング協定を結んでおきながら、戦争が終わるとこれを破棄した。これがアメリカの常套手段であり、諒解案も悪意が七分善意が三分だ」と弁じて了解案を非難し、退席してしまい、他の出席者を甚だしく失望させた。

陸海軍の間には松岡への反感が高まり、外相更迭論まで出た。
アメリカ側が松岡を非難したため、 松岡洋右外相を更迭するために近衛内閣は総辞職という、日本はアメリカの意に沿った屈辱的な譲歩をします。

そして、日米衝突回避を主張してきた豊田貞次郎海軍大将が外相に就任します。
しかし、アメリカは7月25日に在米日本資産凍結を声明。8月1日には石油を禁輸します。

8月8日には、日米首脳会談を提案しますが、8月9日には太平洋会談で、アメリカとイギリスの首脳は対日戦争の協力を協議し、約束します

ハルノート

大西洋会談から戻ったフランクリン・ルーズベルトは、8月17日に野村大使に二通の文書を手交した(8月17日通告)。

「戦争警告の文書」と「首脳会談に原則的に賛成する」との文書である。

これに対し8月28日にアメリカに回答書を手交します(8月28日回答)。
回答の内容は、日本の立場を説明するもので、「アメリカの言う”原則”や”プログラム”は太平洋地域に限定されるべきではなく、全世界に適用されるべきこと、またその実施に当たっては持てる国が資源の公平な配分に努力すべきこと」を提言しており、冷静で説得力のある名論だった。
また、一刻も早い首脳会談を希望し、会見場所にハワイを提案したものだった。

ルーズベルトは大いに乗り気の様子を見せたが、同席していた国務長官のコーデル・ハルは「首脳会談は事前にまとまった話を確認するだけのものにしたい」と繰返し主張し、日本の意図と根本的に反する態度だった。

日本の8月28日回答を受けて、9月3日に近衛メッセージへの回答とオーラル・ステートメントを野村大使に手交した(9月3日回答)。
回答は、首脳会談に同意する明確な表現を避け、その前提条件として基本問題に関して合意するための予備会談が必要であるというものだった。

オーラル・ステートメントに至っては4ヶ月も前に「日米諒解案」の基礎としてハルが提起したハル「四原則」を再び持ち出し、「4原則」によってのみ太平洋における平和が達成できるなどと言い出した。
このような重大な時期に4ヶ月も前の「4原則」を提示してきたのは国務省当局の対日不信の表れで、首脳会談の延期と阻止を狙ったハル一味の策謀と見られている。

アメリカ側にとって交渉はすでに終わったも同然だった。
石油を止められて瀕死状態の日本は、はいつまでもあてのない対米交渉を継続すべきか、見切りをつけて開戦すべきか、という重大決断を迫られることになった。

数日後に開かれる御前会議で、10月中旬までに対米交渉解決の目処がつかない場合は、対米宣戦に踏み切ることを決定する。
この御前会議で、あくまで平和的外交手段を尽くすが、自存自衛のため、対米戦争を辞せざる決意の下に10月下旬を目途として戦争準備を完整、10月下旬になっても交渉成立の目途がない場合は直ちに対米(英蘭)戦争開戦を決意することを決定した。

経済封鎖や石油禁輸などののっぴきならない事態に追い込まれた日本はやむなく日米開戦を決意した。

近衛首相が国策要綱について天皇に内奏したとき、陛下は、戦争準備を第一に記し、外交交渉を第二にかかげている点を指摘した。
それを近衛首相は「あくまでも外交交渉がしゅである」と否定し、さらにこの点を明らかにするために陸海軍両総長が招致され、天皇から同様の質問を受けた。

9月6日の御前会議では、前日に引き続き、天皇は「外交が主か、戦争が主か」と尋ねた。及川海相が「重点は外交にある」と再度答えると天皇は懐から明治天皇の御製を記した紙片を取り出し、詠み上げた。      

      よもの海みなはらからと思ふ世に
               など波風のたちさわぐらむきようく
(四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか)

「全員恐僭して、しばらくは言も発するものなし」と近衛首相が日誌にその時の様子を記している。

その後、永野修身海軍軍令部総長が発言を求めて、苦しい胸のうちを切々と語っている。

「政府側陳述によれば、
アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である」

この発言でもわかるとおり、日本は、この時点でも戦争の準備は進めるが、できることなら外交で開戦は回避したいと望んでいた。

その後、近衛首相はグルー駐日大使を通じて、日米首脳会談の実現を再度依頼します。
近衛首相は、陸海外三相諒解の下にグルー駐日大使と会見し、現内閣は陸海軍一致して交渉成立を希望しており、この内閣をおいてほかに機会ありとも思えないと強調し、速やかに首脳会談を行う必要を申し述べた。

グルーは首脳会談に対する近衛の自信に動かされ、直接大統領宛てにこの会談内容を報告することを約束し「この報告は自分が外交官生活を始めて以来、もっとも重要な電報になるであろう」と感慨を込めて述べた。

随員もいつでも出発できる用意をし、海軍も新田丸を待機させて万全の準備を整えたが、交渉は遅々として進捗しなかった。

グルー駐日大使は、ハル国務長官とルーズベルト大統領充てに電報を打ちます。
「日本は真剣に日米首脳会談の実現に努力している」、「日本は事実上、三国同盟を死文化する用意のあることを示している」、「対日経済圧迫より、建設的な融和政策の方がアメリカにとって賢明な選択であり、この機会を逸したなら戦争の公算は増加するであろう」などである。

しかし、この電報は無視された。

10月2日にハルから野村大使に覚書が交付された。
内容は重ねてハル「四原則」を掲げ、日本は支那に「不確定期間」駐兵しようとしていると非難し、さらに三国同盟に対する立場を一層明確ににするよう要求するもので、首脳会談については相変わらず「根本的な問題」についての予備会談が必要である旨を述べるにとどまった。

このアメリカ側の覚書は日本側を大いに落胆させた。東條英機は「宣誓供述書」で「(この覚書によって)首脳会談の成立せぬことが明白となった。日本は忍び得ざる限界まで譲歩して交渉成立に努力したが、10月2日米国案を見ると、交渉開始以来一歩も譲歩の跡が認められない。日本は生存上の窮迫した問題を解決しようとするのに対し、アメリカは当初からの原則論を固執するのみであった」と述べている。

10月4日の連絡会議でアメリカ側覚書を検討した際、永野軍令総長が「すでに議論の余地はない」と主張したのに対し、東条陸相は「この覚書に対する回答は慎重回答すべきである」と述べた。

この覚書は日本が辛抱強く継続してきた交渉路線を、大きく戦争へ転換させる重大な心理的契機となったものである。

10月2日に行き詰った近衛内閣が総辞職し、東条内閣が成立する。

11月1日に「帝国国策遂行要領」及びそれに基づく日本最後の対米交渉打開案[甲案・乙案]を決定する。

これは、アメリカ側の希望をできるだけ取り入れた最終的譲歩案で、支那における通商無差別、支那及び仏印よりの撤兵の三点について譲歩した案であった。

国務長官ハルやグルー駐日大使、さらにはクレーギー駐日イギリス大使にも日米交渉への妥協を要請した。
しかし、1日前にはイギリスのチャーチルは「アメリカが対日戦争に巻き込まれた場合は、イギリスは1時間以内に対日宣戦を布告するであろう」と演説をしていたことを考えれば、日米交渉に対してイギリスがもはや何の関心も有していないことは明らかだった。

乙案をハル国務長官に提出する。
しかし、アメリカは大西洋会談でもう参戦を決定していたため何の興味もなかった。ともかく、このぎりぎりの暫定協定案である乙案に対して国務省は「一顧の価値もない」との判断を下し、これを黙殺することにしたのであった。

11月21日にアメリカに対し、三国同盟死文化を申し入れる。

ルーズベルトは交渉引き延ばしを目的とする暫定協定案をハルに作成させる一方、対日戦争を策謀していた。

11月25日のアメリカの戦争関係閣僚会議でルーズベルトが議題としたのは和平の見通しではなく、戦争はいかにして開始されるかの問題であった。

ハルはついにこの日の午後、日本との暫定協定構想の一切を放棄し、その代替案として10項目の提案をまとめ上げ日本に提示した(11月26日)。

この10項目提案の中にはいささかの妥協も譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも、日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた。
これが「ハル・ノート」と呼ばれるものである。

これはそれまで積み重ねてきた日米関係改善のための交渉を踏みにじる内容で、それまでの合意を一切反故にした一方的な要求であった。

日本に戦わずして降伏を要求するに等しいものであり、誰が見ても明らかに最後通牒であった。
もっとも和平を強く望んでいた東郷外相でさえ、ハル・ノートを野村大使から電報で受け取ったとき、「自分は眼も眩むばかり失望に撃たれた」と述べた。

嶋田繁太郎元海軍大臣は、東京裁判の法廷でこう陳述した。
それはまさに青天の霹靂であった。アメリカにおいて日本の譲歩がいかなるものにせよ、私はそれを戦争回避のための真剣な努力と解し、かつアメリカもこれに対し歩み寄りを示し、もって全局が収拾されんことを祈っていた。しかるにこのアメリカの回答は、頑強不屈にして、冷酷なものであった。それは、われわれの示した交渉への真剣な努力は少しも認めていなかった。ハル・ノートの受諾を主張した者は、政府内にも統帥部内部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、その通告はわが国の存立をおぴやかす一種の最後通牒であると解せられた。この通牒を受諾することは、日本の敗退に等しいというのが全般的意見だった

東京裁判の被告全員がこれと同じ感懐を述べている。

日本の指導者がそう受け取ったばかりでなく、後日アメリカにおいても、このハル・ノートに対する非難の声は、日を追うごとに高まった。

東京裁判でパール判事は、「現代の歴史家でさえも『ハル・ノートのような通牒を受け取ったら、モナコやルクセンブルク大公国でさえもアメリカに対し矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう』と言うだろう。」と述べた。

フランクリン・ルーズベルトのライバルと目されたハミルトン・フィッシュ下院議員はハル・ノートの存在を知ると「恥ずべき最後通牒」と批判し、「日本は自殺するか、降伏するか、戦うしかない」と述べた。

戦後、支那は共産化し、アメリカが主張して止まなかった「門戸開放」どころか、門戸を固く閉鎖してしまった。

ABCD包囲網とは

盧溝橋事件に始まった支那事変はずるずると拡大し、日本の外交関係も悪くなっていった。そしていつの間にかABCD(アメリカAmerica、イギリスBritain、支那China、オランダDutch)包囲陣に囲まれることになった。

これらの国が日本をつぶすために石油禁輸措置などを行った。

この包囲人を画策したのは、イギリスのチャーチルであることが最近の研究で明らかになっている。
イギリスは当時ドイツ軍の圧倒的な強さに風前の灯で、チャーチルがイギリスの首相になったのも、連敗を重ねすぎてチェンバレン首相が政権を投げ出したからである。

このような状況を見てチャーチルが考えたのは、「イギリスを救うためには戦争にアメリカを引きずり込むしかない。」ということです。

そしてイギリスとアメリカは日本に対する石油禁輸措置を決定する。

石油をまったく輸入できなくて困った日本はオランダ領インドネシアに打診すると、イギリスとアメリカは、今度はオランダをそそのかし、1941年8月、ついに日本への包囲網を完成させた。

ABCD包囲陣では日本資産の凍結、鉄鉱禁輸措置も取られたが一番影響があったのは石油である。
このままでは、国が滅びるので、戦争に難色を示していた海軍も覚悟を決め、戦争準備に入ります。

しかし、日米交渉で日本が譲歩し、石油禁輸が解かれればアメリカと戦争せずに済むので、石油の備蓄が無くなるぎりぎりまで交渉に望みをかけます。
しかし、その望みが叶わず、対米戦争に突入します。

ハルノート

近年、驚くべき事実が明らかになった。このハル・ノートは財務次官補ハリー・ホワイトが起草したもので、国務長官のハル本人が作ったものではなかった。
このホワイトなる人物が実はソ連のスパイでした。

要するにソ連のスパイが日本を激昂するような案を作り、大統領のフランクリン・ルーズベルトに採用させることに成功し、日米開戦を誘発したのです。

大東亜共栄圏とは

大東亜共栄圏とは、大東亜戦争前に日本が構想した、現在のEU(欧州連合)のような東アジアの共同体です。東アジアから非人道的な搾取をし続けてきた欧米諸国を追い出し、その支配から独立させ、日本・満州・支那(中国)を中心とする国家連合を実現させるものである。1940年に松岡外務大臣の談話に使われてから流行語化した。日本は、東南アジアから、欧米諸国を一掃し占領すると、現地に現地の政府と軍隊、ならびに様々なインフラ整備を行いました。さらに、民族教育を行います。
そして、1943年には日本の占領地域で欧米列強の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言が採択されます。

大東亜会議

1943年11月に東京で行われたアジア地域の首脳会議。当時の日本やその同盟国がイギリスやアメリカなどの旧宗主国を放逐したことにより独立を果たしたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われ、「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧がある。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われている。写真左は、大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース。写真右は、大東亜会議に参加した各国首脳と代表団。左からビルマ、満州国、中華民国、日本(大日本帝国ではなく日本国と表記されている)、タイ王国、フィリピン、自由インド仮政府。

五族協和

日本が満州国を建国した時の理念。五族は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指す。満州国の民族政策で、五民族が協調して暮らせる国を目指した。五族協和の標語は、満州国の国旗にも黄色の地(満州族)に、左上に4つの彩色横横縞が赤(日本人)、青(漢族)、白(モンゴル族)、黒(朝鮮人)で描かれたと言う説もある(否定されている)。

八紘一宇

「世界は一家、人類は皆兄弟」という意味。八紘とは「8つの方位」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。その後の支那事変から大東亜戦争にかけても大日本帝国の政策標語としてしばしば言及され、当時発行された切手や10銭紙幣の意匠デザインにも使われた。東京裁判では、侵略思想だと指摘されたが、古典などを説明し、「八紘一宇」は日本道徳上の目標であることが認められています。ユダヤ人をドイツの迫害から救った杉原千畝は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。マスコミや国語辞典などでは、原義を解説せず悪語として批判するものが多い。


カンボジア王国の独立

カンボジアは日本と同盟関係にあったヴィシーフランス政権の植民地だったが、フランス本国と連絡が取れなくなった場合は日本に全権が与えられることになっていた。フランスのヴィシー政権が崩壊し、フランスが連合国側寄りの行動を取り出したことから、「明号作戦」と呼ばれる作戦を開始してフランスの植民地政府機構は日本の支配下に置かれることになった。日本に呼応する形で、カンボジア王国は独立を果たした。日本が敗北して、再びフランスに占領された。

ベトナム帝国の独立

ベトナムも元々フランス領だったが、名号作戦により日本の支配下に置かれることになった。カンボジア、ラオス同様に日本に呼応する形でベトナム帝国として独立を果たした。日本が敗北すると八月革命が起こりベトナム民主共和国が出来た。その後、戻ってきたフランス政権が「コーチシナ共和国」や「ベトナム国」などを設立したが失敗。ベトナム民主共和国が共産主義に走ると、アメリカが介入して南部にベトナム共和国が出来、北に勢力を持つベトナム民主共和国との間でベトナム戦争が起きた。

ラオス王国の独立

ラオスもフランス領だったが、名号作戦により日本の支配下に置かれる。それに呼応する形でラオス王国は独立を果たした。日本が敗北すると後ろ盾を失ったシーサワーンウォン王は、ラオスの独立宣言を撤回。再び戻ってきたフランスがラオスを再制圧すると、再びフランス領となった。

インドネシアの独立

インドネシアは石油が採れた為、唯一日本の統治下での独立の計画がないまま、日本の統治が終わった。日本のこの戦争が侵略戦争と言われる原因の大きな理由がインドネシアの統治です。しかし、日本統治下で訓練を積んだ軍隊である郷土防衛義勇軍(PETA)が中心となって、戦後戻ってきてインドネシアを植民地にしようとしたオランダと戦いこれに勝利しています。その際、戦争が終わり故郷の家族が気になっていたにも関わらず、多くの日本人がインドネシア人と「共に生き、共に死す」と誓い合い、インドネシアの独立戦争を一緒に戦っている。この日本人の行為を連合国は厳しく禁じていたが、戦後インドネシアに日本の企業が進出する際に活躍したのはこれらの元日本兵であったとされる。

ビルマ(現ミャンマー)の独立

ビルマは大東亜戦争初期に、日本がイギリスの植民地から解放し、1943年8月1日に日本の支援で独立を果たした。日本がビルマ国民軍を創設し、訓練したことが独立につながっている。

フィリピン第二共和国の独立

アメリカの植民地だったフィリピンはアメリカ占領地で独立を果たそうとフィリピン第一共和国を建国したが、独立を認めないアメリカ合衆国と激しい戦いを行った後(米比戦争)、アメリカ軍に鎮圧され解体された。その戦争に日本の志士が身を投じたり、日本政府が武器の調達をするなど日本とフィリピンの関係はよかった。第一共和国のリカルテ将軍は日本に亡命し、フィリピンの独立に備えていた。その後、日本がアメリカに勝ち、フィリピンを支配下に置いた。日本はフィリピンの独立に備えて、臨時政府を設立。アメリカによって失脚させられた初代大統領のアギナルドも日本を支援した。その後、日本の支援でフィリピン第二共和国として独立を果たした。日本が敗北するとアメリカが再びフィリピンを占領してだフィリピン第二共和国は瓦解した。

インドの独立

インド独立のきっかけも大東亜戦争にあった。
イギリスの署名な歴史家であるエリックーホプスバウ・ロンドン大学教授は、二十世紀を回顧した近著『過激な世紀』の中で、「インドの独立はガンジー、ネルーが率いた国民会議による独立運動ではなく、日本軍とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が協同してインドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた」と述べている。

インド国民軍は、「F機関」として知られた日本軍の藤原機関が育成したインド解放軍である。


神道指令

1945年12月15日、GHQは日本政府に国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、及び弘布の廃止を命じた。

「神道指令」は、神道の禁止だけを目的としたものではない。

日本及び日本人に命じた事柄は3つあった。
それは神道に加え、皇室の伝統、そして歴史教育を全面否定することだった。

「大東亜戦争」「八紘一宇」などの語句も軍国主義・国家神道を連想させるとして禁止された。
これを忠実に守る出版社の教科書は現在でも日本神話を削除したままである。

日本民族の物語である神話も、東郷平八郎元帥など日露戦争の英雄たちも、学校では教えられなくなった。
日本人から過去の栄光の記憶を消し去ったのだ。

なぜこんなことをしたかといえば、アメリカが日本人の精神的強さが「国家神道」にあると見たからである。

この考えはGHQの誤解の産物だった。
そもそも「国家神道」という言葉は日本ではほとんど用いられていなかった。

神道指令の精神は後に日本国憲法の政教分離条項に引き継がれ、首相の靖国参拝問題、地方首長の招魂神社への玉串料違憲訴訟といった、国際社会では稀に見る異常な紛争へとつながっていく。

また、神道指令をさらに徹底させるため、占領軍は翌1946年元旦に昭和天皇に迫って、いわゆる「人間宣言」を出させた。

神道指令の中で特に戦後日本人に重大な影響を及ぼしたのが、歴史教育の全面否定だった。
今日本の学校で習っている「歴史」は「社会科」という科目の一部に過ぎない。戦前では外国と同じく算数や国語と並んで「歴史」という独立した教科があった。ところが「神道指令」以降は歴史は社会科の中で教えなさい、ということになった。


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