大東亜戦争で日本が降伏した後の1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のこと。
正式名称は極東国際軍事裁判。勝者が敗者を一方的に裁いたことから、「リンチ裁判」、「復讐の儀式」とも言われる。
これにより、罪を問われた日本の指導者などが、「平和に対する罪」などに問われ、犯罪人として扱われた。
上記の「平和に対する罪」は、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義されており、(イ)が英文においては(a)になっていたことから、「平和に対する罪」に問われた者が「A級戦犯」呼ばれている。
よって、A級戦犯のA級とは項目であり、罪の重さではない。
また、「平和に対する罪」は、当時国際法上の犯罪でなく、現代においても犯罪概念として確立していない。日本を裁く為に、この時だけ用いられた罪状である。
また、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は、「戦争は犯罪ではない、戦争には国際法があり合法である、戦争は国家の行為であって個人の行為ではないため個人の責任を裁くのは間違っている、戦争が合法である以上戦争での殺人は合法であり、戦争法規違反を裁けるのは軍事裁判所だけであるが、東京法廷は軍事裁判所ではない」とのべている。
連合国によって東京に設置された曲と国際軍事法廷により、東條英機元首相を始めとする、日本の指導者28名を平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。
「平和に対する罪」で有罪になった被告は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告は7名、人道に対する罪で起訴された被告はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。
また、27億円の裁判費用は 当時連合国軍の占領下にあった日本政府に負担させられた。
アメリカの対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設立された。さらにその下位組織極東小委員会(Subcommittee
for the Far East,SFE)が1945年1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された。
1945年8月9日報告書(SFE106)では、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので人道に対する罪を問責しても無駄であると報告されている。
アメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは、日本占領軍である連合国軍最高司令官総司令部の連合国軍最高司令官 (SCAP) に就任し、東京裁判の判決の権限を与えられていた。
しかし、マッカーサーは「国際裁判」には否定的であったとされる。
マッカーサーが東京裁判に反対したのは南北戦争で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからと言われている。
またマッカーサーは1951年5月3日に開かれた上院軍事外交合同委員会において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだったのです」と証言している。
フランスは判事を選ぶ際、パリ大学のジャン・エスカラを選んだが要請を断られ、その代りのアンリ・アンビュルジュが選ばれた。そのアンリ・アンビュルジュも直前になって固辞し、アンリ・ベルナールが選ばれた。
アンリ・ベルナールは法廷公用語である英語を十分に使用出来なかった。
また、ソ連のイワン・M・ザリヤノフ判事も英語を使用することが出来なかった。中華民国派遣の梅汝こう判事は法曹経験がなかった。
イギリス占領下のインド派遣のラダ・ビノード・パール判事だけが、判事11人のなかで唯一の国際法の専門家であった。
ニュージーランド派遣のロナルド・ヘンリー・クイリアム執行委員は、裁判の進め方や未訴追戦犯の拘留が長い事に抗議し、1947年末に帰国している。
オーウェン・カニンガム弁護人が東京裁判を「茶番劇」と批判したことについて判事たちが法廷から追放している。
これは裁判とは名ばかりで、日本の指導者を死刑にかけることが目的で行われた裁判である。
ゆえに、「平和に対する罪」では死刑を求刑できないので、東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。
これによって、A級戦犯として死刑にあったという単独の意味がなくなったとされている。
支那において、「南京大虐殺」と言われている事件である。東京裁判で「人道に対する罪」が適用されたと誤解されることが多いが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用された訳ではない。
白豪主義を国是としていたオーストラリアは、人種差別感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情が強い上に、差別していた対象の日本軍から繰り返し本土への攻撃を受けたこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった。
エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。
昭和天皇を戦犯にすることを繰り返し求め、アメリカ、イギリスなどから、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止されている。
1945年9月27日に陛下が一人の通訳だけを連れて、マッカーサーのもとを訪れています。この時点でGHQは陛下を亡き者にすることが決められていたと言われています。
マッカーサーは、陛下が命乞いに来たと思っていたそうです。
椅子から立ち上がろうともしないマッカーサーに対し、直立不動の姿勢をとられ、国際儀礼としてのご挨拶をなさったうえで、次の様に仰っています。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」
「しかしながら、罪なき8,000万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
それを聞いたマッカーサーは驚き、椅子から立ち上って陛下を抱くようにして座らせました。
マッカーサーは今度は直立不動の姿勢をとり、
「天皇とはこのようなものでありましたか! 天皇とはこのようなものでありましたか!」
と、二度、この言葉を繰り返したそうです。
このことがあったあと、マッカーサーは、「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた」と言ったそうです。
ハバロフスクに抑留中の溥儀は中国からは漢奸裁判にかけられるかもしれないという脅威もあり、すべて日本の責任で自分に責任はないと証言している。溥儀の書簡を出して反対尋問を行った際も「全く偽造であります」と虚偽の証言をしている。
溥儀は後の自伝で、自身を守るために偽証を行い、満州国の執政就任などの自発的に行った日本軍への協力を日本側によると主張し、関東軍吉岡安直などに罪をなすりつけたことを認めている。
訴因は10項目で、その中で侵略戦争に定義されているのは4項目である。いずれも訴因29「米国に対する侵略戦争」、訴因31「英国に対する侵略戦争」、訴因32「オランダに対する侵略戦争」、訴因33「北部仏印進駐以後における仏国侵略戦争」と欧米に対するもので、アジアに対するものではなかった。
判決はイギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。判事団の多数判決に対して、インド代表のラダ・ビノード・パール判事、オランダ代表のベルト・レーリンク判事、フランスのアンリー・ベルナール判事は反対意見書を提出している。
判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された大川周明1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。
判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。
ベルナール判事は満州事変は「ありふれた事件」でしかなく、「事変と称されている事実が起きた時点では、支那政府自身、まだ日本を敵国とみなしていなかった」として、当時の日支衝突を日本側の行為だけを非とするのはおかしいとし、さらに「法的な解決、あるいは仲裁のイニシアティブをとるべきであったのは、日本によって行使される特権の廃止を求めていた支那側にあった」と主張している。
共同謀議については定義が曖昧で、被告が共同謀議に成功したとする多数派判決について「疑わしく」、「正式な証拠がない限り、この疑いを消えないし、また被告を有罪とすることは許されない」と述べている。
また、日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、東アジアを支配したいという希望の存在が証明されたにすぎないから平和に対する罪で被告を有罪にすることはできないとも述べている。
そして、「裁判所が欠陥のある手続きを経て到達した判定は、正当なものではあり得ない」と東京裁判について断じている。
平和に対する罪だけで死刑求刑には反対し、終身刑が妥当としている。
また被告人の広田弘毅に対して、「支那側の要求で、広田は南京虐殺と日本側の不法行為に責任ありとして裁判にかけられ、死刑判決を受けました。私は、広田は南京虐殺に責任ありとは思いません。生じたことを変え得る立場ではなかったのです。ですから、私の反対判決は、彼は無罪放免とすべきという趣旨でした」とのべている。
被告について「彼らはそのほとんどが一流の人物でした。」、「海軍軍人、それに東條も確かにとても頭が切れました」とし、さらに「一人として臆病ではありませんよ。本当に立派な人たちでした」と評価した。
ベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」と友人の外交官に手紙を送っている。
GHQのチャールズ・ウィロビーもレーリンク判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」と述べたという。
国務省ジョージ・ケナンも東京裁判について「そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した。
歴史学者リチャード・H・マイニアは、「アメリカの原爆投下行為に人道に対する罪は適用されないのか」と被告の選定、すなわち連合国の戦争犯罪行為が裁かれなかったこと、また、昭和天皇の不起訴だけでなく証人喚問もなされなかったこと、判事が戦勝国だけで構成されたこと、侵略を定義するのは勝者であり従ってプロパガンダになる可能性などを問題視し、したがって侵略戦争を理由に訴追することは不可能であると主張している。
またニュルンベルク裁判において用いられた「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導部やヒトラー内閣、親衛隊という組織」が共同して戦争計画を立てたという「共同謀議」の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。
起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年から1945年まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている。実際の被告中にも互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。
またこの裁判では、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかった。こういった欠陥の多さから東京裁判は「リンチ裁判」、「単なる一方的な復讐の儀式」とも言われている。
A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介や笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内の左翼系メディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる。
こうした用語法は、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。
ちなみにこのサイトでは松井石根大将をA級戦犯として扱っているが、正確にいうと松井大将もA級戦犯ではなくBC級戦犯である。
これは、松井大将は虐殺という戦争犯罪人ではないと言う思いからのものである。
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