無謀な作戦の代名詞として知られているインパール作戦ですが、本当に意味のない戦いだったのか。
10万人規模の世界史史上最大規模の歩兵合戦にも関わらず、何故「インパール合戦」ではなく、「インパール作戦」なのか。
1944年という戦局が厳しく、防衛領域縮小を図ろうとしていた時期に、何故インドに向けて出撃したのか。
英国軍は15万人の兵力、日本側は日本軍9万人、これにインド国民軍4万5千人を加えるとほぼ同等の14万5千人になるのに、何故インド国民軍を温存したのか。
また、イギリ軍はこの歴史的規模の陸戦の勝利を誇ると言うことをしていない。英国側のインド人が戦勝記念式典を企画したが、英国軍の上層部が差し止めたと伝えられる。何故なのか。
そして、戦後東京裁判の判事に、まだ独立を果たしておらずイギリスの植民地であり、日本に味方するのが分かりきっているインド人のラダビノード・パールをイギリスは選んだのか。また、パール判事が日本無罪の判決付帯書を書くことについて、イギリスは止めることが出来る立場にあったのに、何故そのままにしておいたのか。
犠牲者を多く出した戦いというのであればインパール作戦以上に悲惨な戦いは他にも多くあります。そもそも大東亜戦争そのものが、負けるのが分かっているのに挑んだ戦いです。何故、インパール作戦だけがあんなにぼろくそに叩かれるのか。
騎士道の精神を持つイギリスがインパールを通して何を感じて、インパール作戦によって何を得たのか、出来る限り紐解いて行きたい。
1944年3月から7月まで継続されたインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。「補給を無視した無謀な作戦」、「はじめから意味のない戦いだった」と言われており、無謀な作戦の代名詞として現代でもよく引用される。日本兵9万人が出撃し、3万人が戦死、4万人が戦病死(主に餓死)した日本の負け戦。
開始序盤は、インパール入口の要所・コヒマを占領するなど、日本が有利に進む。英国の物質補給基地のディマプールまで2日の地点まで来ていたが、コヒマを攻略した佐藤中将が食糧難を理由に進撃を勝手に停め、指揮下にある1万人を独断撤退し、日本側の敗北が決定した。
6万人が撤退する中、4万人近くが戦病死(主に餓死)した道は、日本兵の白骨で埋まったことから、その道は白骨街道と呼ばれている。
元々敗北濃厚な中、佐藤中将の独断撤退は部下1万人の命を救った英雄と見る意見が大勢を占めている。
しかし、敵軍であった英国スタッフォード将軍が「この時、もし日本軍がコヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら、英国に勝利はなかった。」と書いています。
また、アーサー・スウィンソンという英国の参謀の一人がその著書である「四人のサムライ」の中で「日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、輸送車が無尽蔵にあったのだから、牟田口は確かに勝っていた。」とあることから、コヒマで勝手に進軍をやめて戦線を離脱した佐藤中将に責任があるという見方もある。
いずれにしても、特筆すべきは、戦いに敗れ撤退する白骨街道において、日本兵に略奪されたという家が一件も報告されていないということです。
それどころか、心配した現地の人達が、道ばたに現れて、日本兵のために炊き出しをしてくれたり、飲み物や果物を提供してくれたりもした。衛生兵が現地の人に治療法を教えた所、嫁を世話するので残ってくれと懇願されたという話まであります。
敗残兵といえども日本兵は銃を持っています。白骨街道の両脇には民家がいくつもあります。6万人の餓死寸前の日本兵が、撤退に際し、バラバラになって軍の指揮命令系統がないような状態でも、誰一人民家を襲ったりせず、4万人が餓死しています。
当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、このインパール作戦に参加した兵隊の士気は終始高かったそうです。彼ら将兵のひとりひとりの心の中に、アジアの平和と独立のためなのだという強い誇りと信念と覚悟があったからです。
インパール作戦について、色々な人が、色々なことを書いていますが、ほぼ、批判です。
それに対して、インパール作戦に参加し、生き残った人々からはほとんど反論がされていません。
しかし、「インパール作戦」を生き残った人たちは、「インパール作戦」を、「インパールの戦い」とは、いっさい認めていません。
他の戦いは硫黄島の戦い、ペリリュー島の戦いにしても「戦い」です。真珠湾は「攻撃」です。
「インパール作戦」は、10万人規模の世界でも最大級の歩兵合戦にも関わらず、「作戦」です。
「作戦」というのは、目的があるから「作戦」なのです。
その目的は、「インドの独立に火をつけること」です。
インド独立の為という目的があったからこそ、敗戦濃厚な状態でも日本軍は終始士気が高かったと言われています。
インドの独立運動の英雄にチャンドラ・ボーズと言う人がいます。彼はインド独立運動の支援をソ連に要請するも断られ、ドイツに亡命し、ヒトラーに支援を要請するも「インドの独立には後150年かかる」と断られます。
しかし、日本の東条英機がその声を聞き、支援を決めます。1941年のことです。
ボースは、日本の支援を得て、シンガポールで「自由インド仮政府」を結成し、初代首班に就任しました。これが今のインド政府です。
そして「インド国民軍」を結成し、最高司令官に就任します。
1943年に「大東亜会議」が開催され、自由インド政府のチャンドラ・ボーズが出席します。その会議で日本領下のインド洋上のニコバル・アンダマン諸島を自由インド政府の支配下に治めます。そして、日本軍のインパール作戦を懇願します。自由インド軍がインド領に姿を現せば、自由を求める各地のインド人が隆起すると信じたからです。
東条英機は繰り返し懇願されることにより、次第にボーズの熱意に共感するようになります。
これに蒋介石政府への援蒋ルートの遮断も相まって、インドに向けて出撃するようになります。
欧米各国の戦いは、自国の兵士を後ろの方において、前線は植民地の兵です。インパール作戦もイギリス軍の前線にはネパール人などが沢山いました。アメリカの戦いも、前に黒人などを歩かせて、それを撃ってきた場所から敵兵の場所を確認して、後方からアメリカ人などが撃つという構図です。それが世界のセオリーです。
まして、インドの独立の為の戦いなのです。
インド国民軍を先頭に立てて、悪いことなど1つもありません。
しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
自分たちが戦いの先頭に立った。
軍だけではありません。
個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうしています。
イギリス軍は15万人という大軍です。
それに対して、日本軍は9万人です。ただでさえ火力が足りないのに、インド国民軍の本体をインパールに参戦させていません。
インド国民軍4.5万人を合わせると兵力は互角になるのに、どうしても一緒に戦いたいと主張する6千名だけを連れて、インド国民軍本体を温存します。
インパール作戦は「戦い」でなく、「作戦」である。インドの独立の為の戦争なのである。
この戦いで、日本軍は敗れても、日本兵の心はインド人の心に残り、インド人の決起を促すであることを考えてことです。
事実、戦いには敗れましたが、作戦はは成功し、間もなくインドは独立を果たしています。
日本に武士道精神があるように、イギリスには騎士道精神があります。
インパールで日本軍は補給路がない状態で、約2か月戦います。ジャングルのような場所で、指揮系統もバラバラな状態でのことです。
イギリスの兵士は、栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富に持っています。そして、自分たちの為に戦っています。
ところが日本兵は、他国インドの為に戦い、武器弾薬も不足し、食糧もありません。
ある者はガリガリにやせ細り、ある者は大けがをしている。遺体は、まるで幽鬼です。
ガリガリに痩せ細り、少数の兵士が、弾のない銃剣を握りしめてそこに死んでいる。
殺しても殺しても向かってくる。
それが何日も続く。
何回も続く。
降参を呼びかけても誰も降参しない。
弾も持たずに、銃剣ひとつで向かってくる。そんな戦いが60日以上も続いたのです。
イギリス軍配下のネパール人が「今までどの戦いにも勝ってきた。戦友が死んだこともあったが、涙したことはなかった。しかし、この日本兵の死体を見て、初めて泣いた。」とおっしゃっています。
現在にいたるまで、イギリス軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてインパールを「誇って」いません。
最近、イギリスの大衆によって歴史上最も偉大な戦いに選ばれています。
15万対9万の陸戦という、ヨーロッパ戦線おいてすらあまりなかったような世界的大会戦だったのです。けれども、祝賀祭も、パレードも開催されていない。
また、インパール後のイギリスのインド駐屯隊が示したインド人の独立運動への対応は、極めてぬるいものになっています。インパール前のイギリス軍なら、デモの集団のど真ん中に大砲を撃ちこんでいたが、ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。
日本軍の行軍に騎士道の誇り高きイギリス軍は何かを感じ取ってくれたのかもしれません。
大東亜戦争の後に行われた東京裁判では、イギリスは、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事をを送りこんでいます。ラダ・ビノード・パール判事です。
植民地の有色人種を判事に指名してきたのはイギリスだけです。
インド独立を希求するパール氏が判事となった場合、どういう判決を書くかは、裁判が始まる前から「わかる」話です。
加えて、英国にしてみれば、もし、英国領インドから送り出した判事が「気に入らない」なら、いつでも首をすげかえる、誰かに交代させることができたはずです。
そして、実際パール判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時のイギリスはまったくこれを容認しています。
インパール作戦当時の英国のインドのトップは、イギリス王室の人物です。
パル判決書は、インパールでメッセージを受け取ったイギリス王室と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書といえるのではないでしょうか。
インパール作戦は「補給を無視した無謀な作戦」、「はじめから意味のない戦いだった」など散々な評価です。
もちろん3個師団が壊滅状態となった事で北部ビルマの防衛は困難となり、現地支那軍の反攻を許した結果として拉孟、謄越の玉砕を招いてしまった事実は否定できません。
また、作戦を指揮した牟田口中将が潔くなく、名誉に駆られていたせいというのも理由の一つです。
しかし、当のイギリス軍が牟田口中将の作戦通り、佐藤中将の独断撤退がなく、迅速にディマプールまで進行していたら、イギリス軍の勝利はなかったと言っていることから、完全に無謀な作戦ではなかった可能性もあります。
補給がなく餓死したという話も、佐藤中将が先に勝手に撤退し、撤退経路のすべての食料を食べつくしたため 、あとで撤退した31師団の松村連隊は食料が全く得られず、飢餓に苦しむ悲惨な撤退となってしまった。
という話もあるくらいです。(松村連隊以外では飢餓に苦しむ状況は一切起きていない。)
一部、イギリス軍の証言です。
アーサー・スウィンソン大尉(英第2師団参謀・ディマプール)
「牟田口の方が、実際には正しかったのである。何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、英軍は懸崖に立たされていたであろう。
」
スチルウェル中佐(北部戦域軍(米支軍)参謀・レド)
「英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。 首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま 一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将(第11方面軍司令官)の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ」
アーサー・パーカー中佐(第4軍団参謀・インパール)
「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」
マウントバッテン大将(東南アジア連合軍 (SEAC)・総司令官)
「すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、 そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍はこれを防ぐ方法は無かった。 」
ストップフォード中将(第33軍団司令官・シェラート)
「このときもし日本軍がコヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら英国に勝利はなかった。(作戦全体において)」
無謀どころか勝っていた可能性が高いインパール作戦が叩かれている一番の原因は、インパール作戦の存在が「日本軍はアジアの解放の為に戦った」という証明になるからだと思っています。
インドへの進出は、侵略の意図は皆無です。むしろ、大本営は大反対していました。
しかし、インドの独立の為に多大な犠牲を出して行動に移しています。
左翼の人達は大東亜戦争を侵略戦争と呼びたがっています。しかし、侵略戦争では説明出来ないことが沢山あります。
その代表的な戦いがこの「インパール作戦」なのだと思っています。
左翼の人達にとって「インパール作戦」は「意味のある戦い」であっては困るのです。
なので、執拗に「はじめから意味のない戦いだった」と意図的に位置付けているように思えてなりません。
意味のない作戦で日本軍の士気が終始高かったというのは説得力に欠けます。
インドの独立の為に戦った戦いであったからこそ、イギリス軍の気持ちを動かし、そう遠くない将来、大東亜戦争を再評価する動きに繋がっていく作戦になるような気がしています。
インドのインパール付近のマパオの村で歌われている歌
父祖の時より 今日の日まで 美しきマパオの村よ いい知れぬ喜びと平和 永遠に忘れまじ
美しきマパオの村に 日本兵来り 戦えり インパールの街目指して 願い果たせず 空しく去れり
日本兵 マパオの丘に来る それは4日の火曜日 1944年のことなりき 我は忘れじ4月のあの日
罪なき民も散り散りに 西に東に追いやられ 再び神の恵み受け 集り住まん この地マパオに
広島の悲報 勇者の胸をつらぬき 涙して去れる
日本の兵士よ なべて無事なる帰国を われ祈りてやまず
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