「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で中心的活躍をする。陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の一つ、教育総監も務めた。最終階級は大将。
中国研究の第一人者で、中国語は日常の冗談に至るまで堪能だった。また、東洋のローレンスと呼ばれ、謀略将軍として様々な憶測が飛び交う人物だった。
しかし、土肥原を知る人は、土肥原を誠実の人と評し、出入りする中国人の面倒を親身になって見てまわる、超がつく程のお人よしの好々爺だったと言われている。
「謀略はテクニックではなく、誠の心である」と言っていたそうです。
満州国皇帝、溥儀を説得して奉天から長春に連れてきたのも土肥原で、迷っていた溥儀は目の前の土肥原を信頼して決意したと言われている。
満洲事変の直後の無政府状態の奉天では、臨時市長として、個人名義で100万円(現在の100億円)を借入て工面し後に返済を巡って苦労するなどの逸話も残っている。
その誠実さに惹かれた中国人も多く、支那事変では土肥原を慕って中国難民が数万人も列を作ったと言われている。
東京裁判でA級戦犯となり死刑判決を受け処刑される。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、一部を有志がひそかに持ち帰り、松井大将ゆかりの興亜観音(静岡県)に持ち込まれ、1959年に吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。
他にも、靖国神社を始め、サン・ピエトロ大聖堂、殉国七士廟(愛知県)など各地で祀られている。
経緯
陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世する。
1931年、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。
同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させる。
その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。
この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。
支那事変では、1938年6月の五相会議の決定によって土肥原機関を設立した。
特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。東京裁判
大東亜戦争終結後、軍事参事官となった直後、A級戦犯としてGHQに逮捕される。支那侵略の罪に問われる。
しかし、当時支那への日本軍の駐屯は、各国足並みをそろえた形で、今でいう国連PKOのような形でした。
東京裁判において、特に支那が強硬に極刑を主張し、最終的に死刑の判決が下され、巣鴨プリズン内で絞首刑が執行された。人物
蒋介石は、土肥原の人徳の深さに脅威を感じ「土匪原(「土肥」に音の似た侮蔑語「土匪」を重ねたもの)」と憎しみを込めて呼び、蒋が独自に作成し連合軍に送ろうとしていた日本軍戦犯順位の資料で1番に上げられていたが、性格は温厚であったといわれている。
辞世の句
「わが事もすべて了りぬいざさらば ここらでさらばいざ左様なら」
「天かけりのぼりゆくらん魂は 君が代千代に護るならべし」
「踏み出せば狭きも広く変わるなり 二河白道もかくやありなん」
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