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A級戦犯と呼ばれた英雄達

ヘランボ・ラル・グプタ(インド独立運動の英雄)

「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」




白鳥敏夫白鳥敏夫

駐イタリア大使。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、ソ連に対抗するための日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。

終戦後、連合国によって行われた東京裁判にてA級戦犯として起訴。東京裁判に出廷したものの、喉頭癌によりかなり衰弱していた。
裁判では白鳥の活発な言論活動が戦争をあおったものであると指摘され、終身禁固刑の判決が下ったが、半年後の1949年6月に死去した。喉頭癌の為、裁判の後半はほとんど欠席していた。

裁判に出頭途中で外務省の吉田外相を訪ね、憲法改正に関する持論を書き残している。その中に、またいかなる形でも外征を禁止すること、良心的兵役拒否、国民の資源を軍事に使わないという一種の戦争放棄的な条項も含まれており、それが日本国憲法第9条に影響を与えたと白鳥の弁護人を務めた廣田洋二が述べている。

経緯

東京帝国大学法科大学(東大法学部)卒業後、高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格し、外務省に入省した。奉天・香港で領事官補として勤務し、その後ワシントンD.C.の駐米大使館において勤務した。
1920年に外務省内に情報部が設置されると、白鳥は情報部員となる。

1930年に情報部長となったが、1931年には満州事変が勃発した。
白鳥は事変擁護の姿勢をいち早く打ち出し、国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。

事務総長のエリック・ドラモンド (16代パース伯爵)から内密に調停の私案が日本側に提示された際、白鳥は独断でこれを公表し、いかなる国際連盟の調停も拒否する姿勢を表明した。ドラモンドは不快感を示し、国際連盟日本代表部は困惑することになった。

白鳥は事変の発生を佐官級の十数名が陸軍首脳を引っ張って発生させたものであると見ており、当初は満州独立を列国の同意が得られないとして否定的に考えていた。しかし事変後には今の日本のスローガンは「アジアに帰れ」であると主張するようになっている。

12月には事変後の混乱により第2次若槻内閣が倒れ、犬養内閣が成立した。対満蒙実効策案審議会が設立され、白鳥はその外務省代表メンバーとなった。

1932年に成立した満州国承認問題については「別に急ぐこともないさ、運河を掘る訳じゃないからね(アメリカがパナマ運河を建設するためパナマに傀儡政権を作り、直ちに承認したばかりだったことに対する皮肉)」と海外記者に伝えるなど、白鳥のアメリカに対する態度は極めて挑発的であった。

ウィリアム・キャメロン・フォーブス駐日大使は白鳥を「悪玉(evil genius)」と評し、後任となったジョセフ・グルーも「極秘裏に行った外交会談の内容を独断で公表し、しかも誤った要約を行う」と評している。

さらに国際連盟脱退など軍部と連携して英米に対する強硬外交を推進し、そのための世論誘導に努めた。

1933年スウェーデン公使としてストックホルムに赴任。
白鳥は、英米を牽制するという見地からドイツとの防共協定自体に賛成していたが、米英との対立はそれほど強調していなかった。

しかし、ソビエト連邦に対して激しく警戒しており、対ソ関係を「清算」する、即ち対ソ戦争をも行う覚悟で交渉を行うよう主張していた。

1936年、日本に戻ってくるが、帰国してからの約2年間は閑職に置かれる状態だった。
この時期白鳥は活発な言論活動を展開し、様々な論説を発表している。日中戦争については日本と西洋に依存することを考えた中国との間で思想的対立があったためであると主張し、日本側もその真意を中国側に伝える義務を怠ったとしている。

日独伊連携強化を主張する若手外務官僚の間では「白鳥を外務次官にせよ」との声が何度も挙がった。しかし外務省内で対立することが多い白鳥は、省内で警戒して言うる人も多く、立ち消えになっている。

次官の代わりに提示されたイタリア大使のポストに赴任している。




日独伊三国同盟への関与

白鳥は大島と連携して防共協定強化、つまり日独伊三国同盟の推進を図った。
しかし三国同盟には反対派も多く、日本政府としては同盟はあくまでソ連に対抗するためのものであり、英米に対してはイタリアとの連携によって牽制する程度の意味しかなかった。
しかしドイツは対象を限定しない一般的同盟を求め、白鳥と大島はその代弁者となった。

白鳥は、日本側の目的達成よりも独伊の要求に沿うことで、同盟締結を優先するよう主張していた。
本国の指示に従わない白鳥らに対し、若干譲歩するものの、同盟は基本的にソ連を対象としたものであることを説明するよう訓令したが、白鳥らはこれも無視した。

米内海相は、「政府の命に従わぬ大使は辞めさすのが至当なるべし」としたものの、政治状況は両大使を罷免できる状況ではないと嘆いている。

五相会議で「すぐに有効な軍事援助はできない」という意図を伝えるよう決定し、もし両大使が従わない場合は召還するという方針を決めた。
しかし白鳥らは訓令を拡大解釈し、独伊が英仏に対して宣戦する場合は、日本も宣戦すると明言した。

この行為に天皇は、白鳥らの行為が天皇大権を侵すものであると激怒している。

米内海相は両大使を召還するべきだと主張し、有田外相も日本の外交を運営しているのは白鳥と大島だと、グルー米大使にこぼしている。

以降、五相会議は白鳥と大島に訓令を送らないことを決め、同盟交渉は停滞することになった。
交渉の遅延にいらだったドイツの外相は「日本との同盟締結があまり難航するなら、ソ連との不可侵条約を結ばざるを得まい」と恫喝まがいの発言をした。

大島は単なるブラフと受け取ったが、白鳥はこれを本格的な警告と受け取った。
有田外相は白鳥の意見を聞き入れなかったが、独ソ不可侵条約が締結された。

これにより三国同盟交渉は一旦白紙となったが、白鳥はこの頃から日独伊にソ連を加えた同盟関係を志向するようになり、「日独伊ソ四国によるユーラシアブロック構想」を考えるようになった。
日本では平沼内閣が総辞職した。

元老西園寺公望は次の内閣の課題として「一切の掃除を断行」し、「大島・白鳥の輩を召還せしむるを可とす」と語っており、新任の野村吉三郎外相は白鳥、次いで大島を召還し、革新派の栗原をスイス大使に転出させた。

白鳥は第二次世界大戦に関して、当初からドイツ有利との見方をしていた。
第二次世界大戦の緒戦でドイツが快進撃を見せると、白鳥は「新秩序」が到来すると主張し、ドイツと同盟を組むべきと強く主張し、「我国上層部」を批判するようになった。

1940年には米内内閣が倒れ、第2次近衛内閣が発足した。
白鳥が外相となるという噂を米内が聞いていたように、白鳥外相を待望する声は多かった。しかし天皇が白鳥の外相就任に反対したため、外相となったのはかつて白鳥の上司だったこともある松岡だった。

近衛や陸軍は白鳥を次官にするよう要望したが、松岡は大橋忠一を次官とし、白鳥には外務省顧問の地位を与えた。

白鳥の言論は次第にユダヤ陰謀論的となり、イギリスが参戦したのはユダヤ資本家のせいであると唱え、やがてユダヤ人に支配されているアメリカとも戦わねばならず、日独伊三国同盟はアメリカを戦争に引き入れるためのものだと主張するようになった。

1941年、白鳥は躁病の治療のために顧問を辞任、以降一年間は入院と療養の生活を送ることになった。それでも1942年には、衆議院議員に立候補し、当選している。

しかし、その後迷信めいたことを口走るようになり、「誇大妄想狂」「まだ病気が治らない」などと揶揄されていた。

東京裁判

戦後、連合国側からA級戦犯指定を受けた。
東京裁判に出廷したものの、喉頭癌によりかなり衰弱していた。

法廷では、白鳥が在職期間中、侵略戦争拡大に向けた「最も有力な宣伝者」となり、「量刑は彼の職務を考慮したものではなく、その行動が自身の職務を超越し、重大な結果を招いたことによる。このため本法庭は彼を(侵略戦争)共同謀議のリストに加えた。その罪はたいへん重い」とされた。

終身禁固刑の判決が下ったが、半年後の1949年6月に死去。
1978年10月17日、靖国神社の合祀祭にて昭和殉難者として合祀された。

富田メモ

小泉首相が靖国参拝する直前の2006年7月に日本経済新聞によりその存在が報道された元宮内庁長官・富田朝彦がつけていたとされるメモ。

メモ全体の公刊や一般への公開はされていないが、昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道された。

当時、小泉純一郎首相は任期の末年を迎え、「8月15日に靖国参拝する」という公約を過去3年間果たしておらず、その動向が注目されており、終戦記念日の8月15日に靖国神社に参拝するべきかどうかで議論が盛んであった。

メモによると、昭和天皇はA級戦犯が靖国に合祀されたこと、特に「松岡外相と白鳥大使」に強い不快感を持ち、靖国に参拝しなくなったことなどが書かれているとされる。

しかし、高松宮・三笠宮の両親王は合祀後も靖国参拝を続けている。

また、このタイミングで誰が何の為に日経新聞に流して記事をかかせたのかが不明である。



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