「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役入りした。
その後拓務大臣(第15・17代)、朝鮮総督(第9代)を務め、大東亜戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年に内閣総理大臣(第41代)に就任した。
悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年4月に辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。
戦後はGHQにより戦犯容疑で起訴され東京裁判で終身刑の判決を受け服役中に死去した。
経緯
陸軍大学校(22期)卒業後、陸軍省軍務局長、関東軍参謀長などを歴任。平沼内閣において拓務大臣として初入閣した。米内内閣でも拓務大臣として再入閣を果たした。
大東亜戦争開戦後の1942年に朝鮮総督に就任し、「内鮮一体」をスローガンに前任者の南次郎総督が行った皇民化政策をよりいっそう押し進めた。小磯は朝鮮人官吏の登用、朝鮮人企業の推進、朝鮮人の政治関与の実現などを掲げる一方で、1944年に朝鮮にも徴兵制度を施行した。
東條内閣が辞任を余儀なくされると、小磯が首相に任命された。
首相就任時には予備役となってから7年も経っており、「日本はこんなに負けているのか」と発言するほど戦況に疎かったと言われている。また、予備役のまま首相に就任したため、戦局を検討する大本営の会議にも規則により出席できなかった。
小磯は米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを意図していた。
しかし陸軍から軽く見られていた小磯は作戦を知らされないこともあり、天皇陛下の前で恥をかいたこともあった。
小磯は現役に復帰して陸相を兼務し指揮体制の一元化を図ろうとするが、実現出来ず、八方塞がりとなった小磯内閣は成立から約8ヵ月半で1945年4月7日に内閣総辞職した。
1944年9月7日には、インドネシアの独立を認容する「小磯声明」を発表している。東京裁判
戦後、連合国側からA級戦犯指定を受けた。
小磯には「朝鮮の虎」とのアダ名が付けられていた。予審検事による尋問の中で検事が「将軍は、朝鮮のトラと呼ばれている。トラは侵略的ないきものである。その理由をお答え願いたい」と質問した。これに対し小磯は「たぶん、歴代の朝鮮総督のうち、ご覧のとおり私が一番の醜男だ。この顔がトラに似ているからでは」と答えた。その場で速記を取っていた女性速記者が笑い出し、検事も「よく分かった」と了解した。
1948年に極東国際軍事裁判で終身禁錮刑となり、1950年に巣鴨拘置所内で食道癌により死去した。
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