「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に、代表的な外交官ないしは外務大臣として関与。敗戦後、東京裁判に呼ばれるも公判中に病死した。
国際連盟を脱退して帰国したときは歓呼で迎えられたが、戦後の評判は最悪に近く、大東亜戦争の主犯的扱いを受けている。よく、領土的野心を持って、国際連盟脱退などを行ったと言われるが、松岡は三国同盟及び日ソ不可侵条約は決して戦争が目的ではなく、あくまで日米交渉の具に用いるつもりだったと言われている。「満州国の承認」と「支那事変の仲裁」をアメリカがしてくれるのならどちらも破棄してもいいという交換条件の上での話だった。ただ、日本の意見が一つにまとまっていなかった為に、近衛首相が松岡の留守中にアメリカの甘言にのり勝手に「日米諒解案」を進めてしまう。
アメリカが日本と戦争したがっていたのは、外務大臣である松岡は良く分かっていました。そんな甘い国ではないと思っていた松岡は、アメリカとの交渉を直談判するも更迭されます。その後のドイツのソ連侵攻のときも、松岡はあくまで「南進」に反対しますが、ここからも松岡はアメリカとの戦争を避けたかったのが良く分かります。
松岡は終生、アメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、いずれにしても、アメリカとの戦争は避けれなかった。
国際連盟脱退、三国同盟などが戦争の理由の一つに使われたことから、戦後の評判は最悪に近いものになっている。経緯
11歳の時にアメリカに留学し、キリスト教に入信する。その時にアメリカでたびたび人種差別の被害にあっている。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。
オレゴン大学法学部卒業後、母親の健康状態悪化に伴い帰国。
1904年に外交官試験に合格し、外務省に入省する。
外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。その後、寺内内閣のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として、シベリア出兵などに深く関与した。
1919年、パリ講和会議に随員として派遣される。帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年、外務省を41歳の若さで退官。退官後はすぐに、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年には副総裁となる。
1930年、満鉄を退職後、山口県2区から衆議院議員に立候補し、当選する。
1931年の満州事変をうけて、1932年国際連盟はリットン調査団を派遣する。
報告書は、日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではないが、満州を国際管理下に置くという満州国として認めない内容だったため、日本国内の世論が硬化。
日本は満州国を正式承認する。このような中、松岡は国際連盟総会に日本主席全権大使として派遣される。
「日本の主張が認められないならば国際連盟脱退はやむをえない」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省が想定した最悪のケースであり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いたわけではなく、松岡はできうる限り脱退を避ける方針で連盟総会に臨んだ。
その総会における演説は原稿なしで1時間20分にわたるもので、、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。
会議場では絶賛の拍手で渦巻き、フランス代表を皮切りに各国代表が握手を求める程であったが、欧米諸国では逆効果だったとも言われる。対日批判の急先鋒だった国は、中華民国、スペイン、スイス、チェコ、オランダであったが、日本の満州開発姿勢を収めた「リットン卿一行の満州視察」という満鉄広報課の作成した映画を上映されると、日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝える程であった。
当時の文藝春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。
しかし、リットン報告書が連盟総会で採択されると、松岡はあらかじめ準備していた宣言書を朗読して総会から退場した。帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。
しかし本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。
その後、1935年には、再び満州に戻り、総裁に着任する。1938年のオトポール事件では、樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。
1940年、近衛文麿が大命降下を受け、外務大臣として松岡を指名した。外相就任が内定した松岡は「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません」と発言している。
外務大臣に就任すると官僚主導の外交を排除するとして、主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(松岡人事)。
当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた。
松岡は、日本・中国・満州国を中核とする東亜、つまり大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指すことを唱えていた。
当時ヨーロッパはドイツの軍事力に席巻されており、松岡は遠からず西欧がドイツの指導の下形成されるであろうと考え、1940年頃から三国同盟案を検討するようになった。
陸海軍から三国同盟推進の動きが活発になる中、外務省OBは日独同盟に強く反発していた。しかし、松岡の方針は中々決まらなかった。
一方で、松岡は昔から親ロシアを唱えており、「軍部の主張する三国同盟に乗ったと見せかけ、ドイツが日ソの仲介を買って出れば、軍部の反対を抑えたまま日ソ関係を構築できる」とし、「ドイツを通じてソ連と手を結ぶには、今を置いては好機はない」と語っている。
そして、ドイツも日独伊ソの四か国同盟を考えており、松岡はドイツに対して好感を抱いた。
また松岡は日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことができると考えるようになった。その後、1940年に三国軍事同盟が成立。
しかし、その後の独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまった。
この状況の急変に直面し、松岡は自ら赴いて外交的駆け引きをすることを決意し、両国との親睦を深めた。この際、ドイツから、対イギリスへの軍事的圧力の確約を迫られるが、巧みにかわしている。
往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路には日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげた。
一方、松岡のこの外遊中、外相の松岡を抜きにした形で日米で「日米諒解案」が進められていた。
同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれている一方で、「三国同盟の事実上の死文化」は含まれていなかった。日本では、対アメリカ最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて交渉開始に賛成の状況であった。
ところが意気揚々とソ連から帰国した松岡はこの案に猛反対し、静養と称して閣議をしばらく欠席するという行動に出る。松岡が諒解案に反対したのは、諒解案が本当にアメリカの提案であるか疑っていたためである。松岡の読み通り、アメリカの真意は4原則に有った。
その後、アメリカに日米中立条約の申し入れをしている。
1941年、6月22日に会戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体・四国連合案は、その基盤から瓦解する。独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚もいたが、松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張し、南部仏印進駐に関しては閣内で強硬に反対、いわゆる北進論を主張する。
また日米交渉が継続不可能であるという見解を示すようになった。アメリカの意向に沿って、松岡の更迭の為に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させた。この事実上の松岡更迭によって南部仏印進駐は実行されることとなり、アメリカ・イギリスとの対立はよりいっそう深まっていくことになる。
日米開戦
1941年12月8日、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという。
その後、結核に罹患した松岡は、以前とは別人のように痩せ細った。
1945年、旧友であり終戦工作に奔走していた吉田茂から和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。松岡も乗り気ではあったが、ソ連が拒否したため幻に終わった。東京裁判
敗戦後はA級戦犯容疑者として、GHQ命令により逮捕される。
連盟脱退、三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから死刑判決は免れないとの予想の中、痩せ衰えながらも周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には1度のみ出席となった。
1946年6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死。66歳。話好き
松岡自身は「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っている。同じような饒舌さで知られるヒトラーの通訳であったパウル=オットー・シュミットは、「ヒトラーに数多くの訪問者があったが、ヒトラーに臆することなく真っ向うから対談できたのはソ連外相モロトフと「東洋の使者マツオカ」の二人だけであった」と述べている。
また日米交渉で対談したジョセフ・グルー大使は、国務省への報告電報において、対談で語っていたのは「90%松岡、10%が自分」であったと報告している。松岡から見たアメリカ人
野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。
野原の真ん中で、君達は鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。
そうやってしばらく、互いに睨み逢っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、拳骨を固めてポカンときみの横っつらを殴ってくるよ。
さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通して見給え。
この次からは、そんな道で出会えば、彼は必ずものもいわずに殴ってくる。それが一番効果的な解決手段だと思う訳だ。
しかし、その一回目に、君がヘコタレないで、何くそッと相手を殴り返してやるのだ。
するとアメリカ人はビックリして君を見直すんだ。コイツは、ちょっとやれる奴だ、という訳だな。そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる。富田メモ
小泉首相が靖国参拝する直前の2006年7月に日本経済新聞によりその存在が報道された元宮内庁長官・富田朝彦がつけていたとされるメモ。
メモ全体の公刊や一般への公開はされていないが、昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道された。
当時、小泉純一郎首相は任期の末年を迎え、「8月15日に靖国参拝する」という公約を過去3年間果たしておらず、その動向が注目されており、終戦記念日の8月15日に靖国神社に参拝するべきかどうかで議論が盛んであった。
メモによると、昭和天皇はA級戦犯が靖国に合祀されたこと、特に「松岡外相と白鳥大使」に強い不快感を持ち、靖国に参拝しなくなったことなどが書かれているとされる。
しかし、高松宮・三笠宮の両親王は合祀後も靖国参拝を続けている。
また、このタイミングで誰が何の為に日経新聞に流して記事をかかせたのかが不明である。辞世の句
「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」
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