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A級戦犯と呼ばれた英雄達

ヘランボ・ラル・グプタ(インド独立運動の英雄)

「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」




東郷茂徳東郷茂徳

欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任。大東亜戦争開戦時、終戦時の外務大臣。

朝鮮人陶工の子孫で、5歳までは朴茂徳と名乗っていた。

東條内閣で入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。

経緯

東京帝国大学卒業後、初めはドイツ文学者を志していたが、1912年に外務省に入省。

対独使節団の一員としてベルリンに赴任。
この赴任時にユダヤ系ドイツ人エディ・ド・ラロンドと出会い、帰国後結婚している。その後、駐独大使となるが、ユダヤ人を迫害するナチスドイツへの嫌悪を抱き、ナチスと手を結びたいベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免される。

1938年、駐ソ大使として赴任。日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化していたが、東郷の赴任後は、ヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相と、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。

こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する支那事変の打開のため、日本側はソビエトの蒋介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。

しかし、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。

1941年、東條内閣に外務大臣として入閣する。東條内閣では、昭和天皇から対米参戦回避に尽くすよう告げられていた為、対米協調派の東郷を外相に起用したのである。

東郷も天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・満州・海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、陸軍の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。
このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。
内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。

その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、ハル・ノートを「最後通牒」であると上奏、御前会議の決定によって大東亜戦争開戦となった。




大東亜戦争

1941年の御前会議において、昭和天皇から東條英機首相に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があった。

また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。
山本五十六連合艦隊司令長官も、「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したことなどから海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、とする事が決定した。

しかし、駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際によって、当初予定より1時間20分遅れたワシントン時間7日午後2時20分通告(真珠湾攻撃開始1時間後)となってしまった。

また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容(交渉打ち切り)をほぼ把握していたと言われている。

その後、東条内閣から外務大臣を辞任するが、1945年4月戦争終結を請け負ったとされる鈴木貫太郎内閣でも外務大臣に就任する。

東郷は和平に向けた意見交換の場を設けるため、首相・外相・陸海軍の大臣および統帥の長(参謀総長・軍令部総長)の6人による会合を開くことを他の5人に提案する。他の5人もこれに賛同し、内容は一切口外しない条件で、最高戦争指導会議構成員会合として開かれることになった。

1945年5月中旬に開かれた最初の最高戦争指導会議構成員会合で、日本とは中立状態にあったソ連が極東に大兵力を移動しはじめていることから、ソ連の参戦を防止するための対ソ交渉の必要性が議題になった。そこで東郷は、ソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案した。
この会議では、ソ連の参戦防止のため、代償として樺太の返還、漁業権の譲渡、南満州の中立化などを容認することで一致した。

結局、日本の撤兵を含む満州国の中立化・ソ連の石油と日本の漁業権との交換・その他ソ連の望む条件についての議論の用意を条件として挙げたが、成果をあげることなく終わった。

6月22日、天皇臨席の最高戦争指導会議構成員会合の場で、参戦防止だけではなく、和平交渉をソ連に求めるという国家方針が天皇の意思により決定された。

しかし、ポツダム会談にのぞむソ連によって先延ばしにされ、日本政府は7月26日のポツダム宣言に直面する。

ポツダム宣言を知った東郷は、受託の方向で考えるが、ソ連が宣言に参加著名していないことや、内容が曖昧な点があることからソ連を通じた折衝で明らかにしたいという思惑から、モスクワでの交渉の結果を待つという「受諾も拒否もせず、しばらく様子をみる」ということになった。

これについて、鈴木首相が会見で「ノーコメント」と伝えたが、日本の各報道機関が「ポツダム宣言を黙殺する」という表現で報じ、連合国はこの「黙殺」と言う言葉を「reject(拒否)」という言葉で訳した。

こうして8月6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れることになる。

事態の急変を受けて、8月9日午前、最高戦争指導会議が開催された。会議ではポツダム宣言受諾と本土決戦で話が割れたが、結論を天皇の聖断にゆだね、ポツダム宣言受諾が決まった。東郷は、米国の原爆投下をスイスなどの国を通じて非難し、また宣戦布告を通告してきたマリク・ソ連大使に向かって直接、中立条約に違反したソ連の国際法違反に厳重に抗議をしている。

ポツダム宣言受諾が決まった後、陸軍の強行派で東郷の論敵だった阿南陸相は、東郷を訪れ、「色々とお世話になりました」とにこやかに礼を述べ、東郷も「無事に終わって本当によかったです」と阿南に礼を述べた。

あらゆる意味で几帳面な東郷は宣言受諾に際し、連合軍先方に、日本陸軍の武装解除は最大限名誉ある形にしてもらいたいと厳重に注意通告し、阿南はそのことを東郷に感謝していると述べて立ち去った。阿南は鈴木首相にも別れを告げたのち、翌15日未明、自殺する。
人前で涙など見せたことのない東郷だが、阿南自決の方に「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と落涙した。

ルーズベルト大統領の親電

日本政府は1938年、真珠湾攻撃の約30分前の米東部時間12月7日午後1時(日本時間12月8日午前3時)に米国に最後通告を手渡す予定だったが、分割打電した最後の14部について在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わず、野村吉三郎、来栖三郎両大使がハル米国務長官に最後通告を手渡したのは、真珠湾攻撃から1時間近くたった、午後2時20分(同午前4時20分)だった。

その真珠湾攻撃直前にルーズベルト大統領が昭和天皇に宛てた親電があったと言われている。これが先に届けば、戦争は回避されていたとも言われている。

このことについて、1936年から1945年の軍関係の動きについて、戦後、防衛庁(現防衛省)が関係者から聴取した「防諜(ぼうちょう)ニ関スル回想聴取録」から新たに分かったことがある。

1936年12月の開戦前、陸軍参謀本部通信課員だった戸村盛雄少佐(当時)が37年3月、防衛庁の事情聴取に対し、大統領の親電をめぐる経緯について「7日午前11時ごろ、参本(陸軍参謀本部)の廊下で瀬島(少佐)とバッタリ会った」と証言。続けて戸村少佐は「瀬島から『南方軍の船団が飛行機に発見されてこれをおとした』と聞いて、これが開戦の第一発であると思って、瀬島とも一緒に考えて親電を遅らせた」と証言していた。

これは、日本の船団がマレー半島沖で英軍の哨戒飛行艇に発見されたため、護衛していた旧日本軍の戦闘機が撃墜した事実を指す。この証言が事実なら、瀬島氏は旧日本軍がすでに、米国と同盟関係にあった英国と開戦したという事実誤認から陸軍の規定に従い、親電の配達を遅らせたことに関与していた可能性がでてくる。

大統領親電の内容は日本側に一見、和平を呼びかけながら日本軍の仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だった。

学識者の中には、軍部が親電の配達を遅らせている間に外務省本省がこれを解読、翻訳し、最後通告の内容に反映させようとしたため、結果的に最後通告の遅れにつながったとの見方がある。

ちなみに親電の到着は、日本時間12月7日正午、東京電報局に到着。グルー駐日米大使に配達されたのは10時間以上遅れの同日午後10時半だった。親電は8日午前0時半にグルー大使から東郷茂徳外相に手渡され、東條英機首相が同2時半に昭和天皇に親電全文を読み上げた。対米戦争開始の真珠湾攻撃は8日未明だったと言われている。

東京裁判

戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。

しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられた。

裁判では、結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを重光葵などに批判されている。禁錮20年の判決を下され、その2年後に病死。

朝鮮人だから差別され改名したというデマ

東郷が生まれた際、「朴茂徳」という名前で、5歳の時「東郷茂徳」となったことは有名です。

名前から分かるように、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津藩に拉致された朝鮮人陶工集団の子孫です。

なぜ名前を変えたかについて、日本社会からの厳しい差別のまなざしを避けるために、他家への入籍・分籍という戸籍操作によって日本式の名前に変えざるを得なかった、という説が流布しています。

しかし、 1886年には朝鮮人差別は存在しませんでした。

東郷の故郷の苗代川は、上述の歴史的経緯をもった陶工人の村で、ほとんどが朝鮮姓でした。彼らは気位が高く、薩摩藩では士族と同等の扱いを受けていたと考えていました。

ところが、1872年の壬申戸籍作成の際に、彼らは平民身分とされてしまいました。これに対して「士族編入之願」を繰り返し願い出ましたが、すべて却下されました。何とか士族になろうとして、裕福だった東郷家(朴家)は没落士族から「士族株」を購入して戸籍を変え、「士族」身分と記載されるようになった、という経緯でした。


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