「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日支提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、一部を有志がひそかに持ち帰り、松井大将ゆかりの興亜観音(静岡県)に持ち込まれ、1959年に吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。
他にも、靖国神社を始め、サン・ピエトロ大聖堂、殉国七士廟(愛知県)など各地で祀られている。
A級戦犯として、起訴されたが実際はB級戦犯である。
「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという事実に反する認識が浸透している。
経緯
陸軍幼年学校在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。
川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と支那(中国)の良好な提携であるという。
この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、支那への興味を改めて深めていった。
陸軍大学卒業後の日露戦争では、同郷の先輩にもあたる荒尾精に影響を受け、「日支の強い提携」に思いを寄せる。欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうという思いである。
その思いから、勤務先に清国を志願し、赴任した。
日支関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである。
1909年には、大尉から少佐へと昇進し、この頃から孫文と深く親交するようになった。
松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。
その後も支那国民党の袁世凱打倒に協力している。松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、
1927年9月、蒋介石が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させている。松井は蒋介石が支那を統一すると思っており、「日本は目下失意の状態にある蒋介石を援助して、蒋介石の全国統一を可能ならしむよう助力すし、その代り蒋介石が支那統一した際には、満州国での特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とする」という構想を持っていた。
しかし、1928年の済南事件で、日本の陸軍から蒋介石への非難が相次ぐようになる。
6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蒋介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。
松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。結局、田中首相は退任し、蒋介石も日本への不信感を濃くした。
そして、満州事変、満州国建国を経て、蒋介石の反日の姿勢は強くなっていった。
蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、1933年に松井は大亜細亜協会を設立した。
「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日支の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的動き出す。
1934年には、現役を退き予備役へと入った。
一方、米勢力におもねり、反日、排日の色を濃くする蒋介石の国民党政府に対しては、不信感を拭うことができなかった。また、勢力を伸ばしている共産党の動きに歯止めをかけることが出来ない国民党についても、松井は批判的な姿勢を強めていた。
しかし、1936年、蒋介石との関係を取り戻すために、秘書・田中正明を伴って「西南の旅」に出発した。蒋介石との会談は1時間半に及んだが、ほとんどが松井と蒋介石二人だけの押し問答に終わった。
同年12月12日、西安事件が勃発。捕えられた蒋介石は国共合作により抗日へと方針を180度転換した。ここに及んで、蒋介石と連携するという松井構想は完全に破綻した。南京攻略
1937年、盧溝橋事件、通州事件、大山事件及び、第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に陸軍次官から呼び出しがかかった。
上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の支那軍の待つ上海に向けて出港した。
上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。
そして、11月19日に南京攻略戦を開始。12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。
12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。
翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。13日、南京陥落。17日、松井、南京入城。
翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。
松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。
松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた。
松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。だが、近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。
松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。帰国後
1938年に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。
滞在先の宿の主人に相談し、1940年2月、支那事変における日支双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。
軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所での講演活動を行っていた。
対米英開戦後の1月、松井は「思想国防協会」会長となり、日米開戦の意義や東南アジア占領地における興亜思想の普及について述べている。
終戦後、松井は戦犯指名を受ける。
1946年3月4日、松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語っている。
獄中では常に国民服姿だったという。
そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
松井自身は、『どうもワシは長生きしすぎた』と述べたとされる。南京大虐殺
秘書の田中正明が書いたところによれば、1966年9月に、田中ら5人が岸信介の名代として台湾を訪問した際、蒋介石が「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったという体験談が「興亜観音を守る会」会報に残っている。
南京入城時の写真南京に向かう途中での出来事
かつて、松井大将が南京戦に向かう途中でこのようなことがありました。 日本軍の戦死体は埋葬されて、戦場清掃を済ませていたとき、 それを見た松井大将は、二人の参謀を呼びつけ、 日本兵の死体だけを片付け、支那兵の戦死体を放置したままにするとは何ごとか、と叱りつけたと言います。
何故松井大将が南京攻略に指名されたか。
当時の上層部には、日支親善を説いていた松井大将の名前が、国際世論に対して、一方的な侵略ではない、というアピールができると考えたのではないかと言われています。
辞世の句
「天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」
「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」
「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心」
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