「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
石原莞爾と共に満州建国の立役者。戦の石原、実行の板垣と言われた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、大東亜戦争においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。戦後は東京裁判にて死刑判決を受け処刑される。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、一部を有志がひそかに持ち帰り、松井大将ゆかりの興亜観音(静岡県)に持ち込まれ、1959年に吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。 他にも、靖国神社を始め、サン・ピエトロ大聖堂、殉国七士廟(愛知県)など各地で祀られている。
経緯
1929年に関東軍の高級参謀に就任。
1931年、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、これを奇貨として満州事変を実行した。
1932年、軍司令部付で満州国の執政顧問・奉天特務機関長となるも、荒木貞夫による皇道派人事で洲組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。
その後、満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官、関東軍参謀長を歴任。
関東軍参謀長時代に「満州帝国は治安ますます良好で、庶政は発展している。満洲国は日、鮮、満、漢、蒙の五族協和の国だ。満州三千余万の人口中、日本人は僅か五十万人である。これでは心細い。二十年間、百万戸、五百万人の日本移民が実現されなければならない。」と述べ、関東軍主導による満州農業移民百万戸移住計画を推し進めている。
支那事変(日中戦争)では第5師団 師団長として出征する。山西省太原市を占領している。
1938年6月3日、第一次近衛内閣改造で陸相兼対満事務局総裁に就任。
日支和平に積極的な満州組の総帥である板垣を牽制すべく、東条次が官になっている。のちに戦線の拡大か不拡大かで東条と多田駿参謀次長が争い、板垣は「喧嘩両成敗」として両者を更迭した。
陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。平沼内閣でも陸相に留任したが、ノモンハン事件で参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍参謀の辻政信の独走を黙認している。
しかし「桐工作」では、一度は敵対していた蒋介石と和睦を考え会談を要求している。
独ソ不可侵条約成立による平沼内閣倒壊で陸相を退き、支那派遣軍総司令部の初代総参謀長となってからは東亜連盟論者であった。辻政信とともに起草した 「派遣軍将兵に告ぐ」 で日満支三国による東亜連盟結成を訴えている。
1941年に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。大東亜戦争後半の1945年4月、第7方面軍司令官に就任。第7方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎え、イギリス軍に身柄を拘束された。
その後連合国によりA級戦犯に指定される。
裁判においては地位と残虐行為の大物とされ、中国・シンガポールにおける罪を問われ、死刑判決を受けた。死刑が宣告された後、板垣は教誨師の花山信勝に対して「自分のようなものが、この糞土の身を変えて黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である。ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、非常に幸いであり喜びである」と述べたという。
石原莞爾は何故起訴されなかったか。
板垣征四郎が有罪でで、石原莞爾が起訴すらされなかったことがよく問題になっています。
石原は、大東亜戦争が始まる前に石原莞爾は既に予備役になっていたため、戦争には関わっていないとみなされたことと、階級が低かったこと、末期の膀胱癌に置かされていたからと言われています。
石原は、東京の本裁判にも呼ばれませんでした。その理由は、石原は弁がたち検事が言い負かされることを恐れたため、そして連合国にとってまずい証言が出ることを恐れた為とも言われている。
しかし、極東軍事裁判酒田法廷には呼ばれていて、そこで裁判冒頭、裁判長から、尋問に先立って述べる事はないかと問われると、『満州事変の中心は自分であり、責任は全て私にある。何故私を戦犯として逮捕しないのか不思議である。こんな戦争裁判はたわけた事だ。』と答えています。
また、裁判に先立ち、逓信病院に入院中の石原を数人の検事が訪ね質問しており、「戦犯の中で誰が第一級か」との問いに、「トルーマンだ。トルーマンが戦時中に撒いたビラには、日本国民が軍人と共に戦争に協力するなら、老人・子供・婦女子を問わず、全部爆殺すると書いてある。非戦闘員は攻撃しないと言う国際法に明らかに反している。」と答え、さらに「トルーマンは実際にビラの通りに一般民家を爆撃し、多くの死傷者を出している。又長崎や広島の惨過を忘れたわけでもあるまい。彼の悪行は第一級どころか、そのまた上の第一級に値する」と言い、検事をやりこめています。ユダヤ人を救った
日本がドイツと三国同盟以前の防共協定を結んでいた頃。1933年に首相になったヒットラーは、ユダヤ人の排斥運動の声明を公に行います。
その迫害に難民の海外流出が懸念され、それについてアメリカが声をあげる形で、パリで国際会議が開かれました。議題は、ユダヤ人難民を受け入れるか否かです。「受け入れてもいい」と答えたのは、カナダとイギリスのみでした。イギリスに関しては、「植民地で農業してくれるなら」という条件付きでした。
その前年、日本では、五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)において、「ユダヤ人対策綱領」を決定していました。世界が受け入れを拒否したユダヤ人を、「八紘一宇の精神において受け入れる」と表明したのは、世界でたった一つ、日本だけだったのです。
しかも、施策綱領には「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」つまり、ユダヤ人を人道的観点から保護するが、彼らの資産をあてにすることがあってはならないというただし書きすらあるのです。
満州国の建国理念は「五族協和・王道楽土」でした。天皇陛下の御心でもある「ユダヤ人保護」を決定したのは政府ですが、この中で最もこの成立に熱心であったのが板垣征四郎であったと言われています。
日本は、三国同盟締結後のドイツの抗議すら毅然とはねつけ、亡命ユダヤ人を受け入れています。武士道精神
板垣はシンガポールの第7方面軍司令官に赴任した頃、「阿波丸事件」が起こっています。
阿波丸は、アメリカから依頼されて、東南アジアに収監されているアメリカ人捕虜に届けるための慰問品を積んでいました。緑十字をつけて運行していた阿波丸を、米軍潜水艦「クィーンフィッシュ」が魚雷攻撃、沈没した阿波丸の乗客乗員は一人を除き2000人あまりが死亡したという事件です。
第7方面軍司令部は当然激昂し、会議の末、「このような非人道的行為に対し報復するため、 捕虜に送られた慰問品を全て没収し、海中に投棄して見せしめにすべし」ということで衆議一決したのです。
当時板垣はここに赴任したばかりで、この決議の結果に裁可を下す立場でした。しかし、この報告を聞いた板垣は、語気も鋭く、「馬鹿もの!敵の卑怯な振る舞いに対して、こちらが卑怯な態度で対応したら、 日本武士道の魂はどうなるのか。捕虜の方々には丁重に慰問品をお配りせい!」と一喝したと言われています。豪胆な性格
満州で最後まで抵抗する馬占山軍閥に会見したいと申込んだ際、「面会は謝絶する。万一来られても生命の安全については保証できない」との返事が返ってきました。
しかし、板垣は「それで臆しているようでは帝国軍人の看板を下ろさなければなりません。行きましょう」といって、馬占山に面会に行き、ハルビンの張景恵(後の満州国総理)と協力する約束を取り付けています。辞世の句
「ポツダムの宣のまにまにとこしえの 平和のために命捧ぐる」
「とこしえの平和のために身を捨てて 糞土を黄金にかえる嬉しさ」
「大神の御魂の前にひれふして ひたすら深き罪を乞うなり」
「今はただ妙法蓮華と唱えつつ 鷲の峰へといさみたつなり」
「さすらいの身の浮き雲も散りはてて 真如の月を仰ぐうれしさ」
「懐かしき唐国人よ今もなほ 東亜のほかに東亜あるべき」
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