「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
真の武人と称された元帥
海軍元帥。第24代連合艦隊長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。千葉工業大学の創設者。
日露戦争
仮装巡洋艦香港丸に乗組み後、旅順工作部員名義で重砲隊に転じる。
旅順攻囲戦で海軍陸戦重砲隊中隊長として旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の撃滅に参加。旅順艦隊砲撃で、中隊長と身分の高くない永野の意見が取り入れられ、海軍ではそれほどなじみのなかった観測を用いる間接射撃の実現に貢献し成功させた。
これによってロシア太平洋艦隊を旅順港から追い出すことに成功し、黄海海戦のきっかけをつくった。この海戦によって事実上、ロシア太平洋艦隊は壊滅した。
海軍大尉に進級後、日本海海戦に参加。海軍少佐に進級後、アメリカのハーバード大学に留学、帰国後、海軍中佐、海軍大佐、海軍少将、海軍中将と進級して行った、海軍兵学校長
1928年、海軍兵学校校長就任。
兵学校長時代は、自学自習を骨子とするダルトン式教育を採用、体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進した。これまでの受身一辺倒の兵教育を改め、自主性、積極性、創造性を重視し、個々の生徒が持つ才能や資質、専門性を開花させ、自由に伸ばす方向へと転換させようとした。
その後、1931年ジュネーブ会議全権。1933年横須賀鎮守府司令長官。1934年海軍大将に進級。1935年の第二次ロンドン海軍軍縮会議全権になり、会議において日本の脱退を通告する。海軍大臣
1936年広田弘毅内閣の海軍大臣を拝命。
三国軍事同盟を回避するため、海軍航空本部長に左遷されていた山本五十六を中央に引き戻し海軍次官に据えて、中央の改革を行い、後の海軍三羽烏(米内光政・山本五十六・井上成美)の礎を築いた。広田内閣総辞職後は、連合艦隊司令長官に転出した。日米開戦
1941年、軍令部総長就任。
7月21日の連絡会議では、新たに外相に就任した豊田貞次郎から、アメリカが日本に資金の凍結などの経済制裁を日本に対して行うという報告を受ける。これに対して、永野は避戦派であったが、対ソ開戦は絶対反対だが、アメリカとの戦争を避けることが出来ないと考えていた。
今、アメリカと開戦すれば勝利の可能性があるが、来年には困難になり、その後はもっと難しくなると判断しており、アメリカはその軍備増強が出来上がるまで引き伸ばし、そして決着をはかってくると語っている。
7月30日には昭和天皇に上奏し、海軍としては対米戦争を望んでいないが、日米交渉はまとまらず対立関係に入ること、石油の供給を断たれることなどを述べている。
永野はあくまで軍人は極力政治に関わるべきでないと言う信条を持っており、政府に対して、役職柄海軍の代表者として海軍の実情について報告はするものの、政府が決めた方針について賛成も反対もせず、日米戦開戦の時も回避のための行動は公には見られなかった。
1941年9月3日、大本営政府連絡会議にて『帝国国策遂行要領』が決定した。
会議後、永野は
「アメリカの主張に屈服するというのは、日本が亡国の憂き目に遭うということです。
しかし、戦うのもまた、亡国であるかも知れません。
戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。
けれど、戦わずに国が滅びるというのは、日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。
もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても、祖国を護るという日本精神が残ります。そうすれば、私たちの子孫は、必ず再起し、あるいは三起する。
統帥部としては、もとよりあくまでも外交交渉によって平和的解決を望んでいます。けれどもし、不幸にして開戦と決し、陛下の大命が発せられるようなことになるなら、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」
と述べている。国策方針
11月1日に行われた連絡会議で、最後の国策方針を決める際、東條首相が慣習に沿って、これまでに挙げられた
・戦争を極力避け、臥薪嘗胆する。
・直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する。
・戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める。
の3案の他にないかと出席者に尋ねた際に永野は、第4案として「日米不戦」を提案しています。
これに対し、東條英機首相兼陸軍大臣は「交渉条件を低下させることはできない」とだけ述べ、第4案はボツとされています。
この時、既に米国政府は日本本土に対する先制攻撃作戦を許可していた。
海軍は、日本周辺に大量のB25をはじめとする爆撃機が配備されつつあること、来年初頭には米陸軍の戦力配備が完了し、打つ手がなくなることをつかんでいた。
結局、第1案は2人、第2案に賛成するものはなく、第3案が採用された。
12月1日の御前会議の結果、日本は大東亜戦争を決意し、昭和天皇によって大命が下された。大東亜戦争と興亜工業大学
戦中、実務は次長以下に任せ、戦死者の墓碑銘を書く日が多かったと言われている。
1942年には、興亞工業大学を(現在の千葉工業大学)創設。
同校は、西洋主義の模倣した教育を改め、江戸時代までの教育理念と明治から昭和にかけて教育界で培ってきた経験則を融合させた許幾機関を目指して創立された。
戦時下としては珍しく、敵性語として禁止されていた英語教育をはじめ、国定科目からはずされていた中国古典や音楽、道徳などの教養科目の授業が一貫して続けられるなど学問の自由が保障されていた。
海軍反省会によると、永野は戦争不可避という状況下で、苦心しながら作戦指導に当たったとされる。
永野は実際に戦ってみて、日本軍の兵器の殆どが欠陥品・粗悪品で、欧米列強の基礎技術に裏打ちされた技術力の差が歴然としていた上、陸海軍を統制出来る役職、あるいは調整できる人材が存在しないことに気がついた。
日本が戦争に負けた時の為、興亜工業大学を創設、日本再建のために優秀な日本の若者を温存するための処置をとっていた。
大戦期を通じ他の高等教育機関とはまったく異っており、世俗からは極力隔離され、国家枢要を担う人材、世界文化に貢献する人材を養成するための中枢機関となるよう物心共に特別な配慮がなされていた。
1943年5月16日、インド独立の為に来日したスバス・チャンドラ・ボースと面会。
1943年11月5日から11月6日にかけて東京で大東亜会議が開催される。
海軍では海軍のみが戦闘をしているという考えが強くなり、陸兵力の参入をたびたび要求するが、困難であり、永野への不満は高まった。1944年2月、航空機生産に対するアルミニウムの配分で海軍の要求が通らず、永野に対する不満はさらに高まった。
永野は軍令部総長から更迭された。東京裁判
1945年8月14日、ポツダム宣言を受託するにあたって身辺整理を終え遺書まで書いて自決をしようとするも、海兵同期で、親友の左近司政三に「生きることこそあなたの責任だ」「責任者がこんなにどんどん死んでしまって誰が陛下を戦犯からお守りするのだ、貴様は辛いだろうが生きていろ」と諭され自決を思いとどまった。
アメリカをはじめとする戦勝国に真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷するが、裁判途中の1947年1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり1947年1月5日に死去した。
永野元帥の死は虐待によるものだと言われている。
永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。
また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。
この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞した。
また、ある米国の海軍士官が永野に質問した際、彼は「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」と述べたとされる。
1978年戦死ではなく病死ではあったが、A級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機らと共に法務死として靖国神社に合祀された。
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