「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
陸軍中将。東京裁判で唯一中将として絞首刑判決を受けた。
武藤は対米戦争を断固反対の立場を取っており、和平交渉を必死に継続する東條内閣は、その意志の強さを買い、武藤を軍務局長に登用します。
アメリカの度を超えた要求の数々に、世論は日米開戦に傾いており、東條内閣は「腰抜け」や「国賊東條」など言われていました。
東條の意を受けて活動する武藤も暗殺の噂が流れ、「これで日米戦争が回避されたら、俺は死ぬしかあるまい。」と仰っておられたそうです。
東條や武藤の努力は実らず、対米交渉は決裂します。
武藤はアメリカが最初から和平に関心がなく交渉は時間稼ぎだったと知り「アメリカに一杯食わされた気分だ。」と日記に書いています。
東京裁判では、進駐軍にこびへつらった田中隆吉少将が個人的に恨みがある武藤をある事無い事中傷し、武藤は、これに証言台で真っ向から反論しますが、フィリピン戦線で捕虜を虐待したとして絞首刑を宣告されます。適当な罪状がないので捕虜虐待で死刑にされたとも言われています。
処刑後、遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、一部を有志がひそかに持ち帰り、松井大将ゆかりの興亜観音(静岡県)に持ち込まれ、1959年に吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。 他にも、靖国神社を始め、サン・ピエトロ大聖堂、殉国七士廟(愛知県)など各地で祀られている。
経緯
陸軍大学卒業後、参謀本部作戦課長、中支那方面軍参謀副長を歴任。支那に赴任される。
1938年、北支那方面軍参謀副長に転任。1939年少将に進み、同年陸軍省軍務局長となる。1941年には、中将に昇進。
そして、東条内閣が組閣されると、武藤は開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一、星野直樹らと対立。
1942年にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となる。
1944年には、第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望で、第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任し、その地で終戦を迎える。
終戦の際、切腹を考えるが、周りに説得され、現地で降伏。
東京裁判
フィリピンのマニラ軍事裁判では多くの軍人が捕虜虐待などの罪で逮捕される中、武藤は逮捕起訴どころか、山下奉文などの弁護人補佐として出廷し弁護に努めている。
しかしこの裁判ののち、東京裁判に逮捕起訴されるため日本に戻された。
東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。
東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。
死刑の理由については、フィリピンでの捕虜虐待が最重要なものとしてあげられた。
しかし、現地のマニラでは裁判に訴追されることなく弁護人補佐としてかかわっており、この死刑判決はきわめて矛盾したものとして指摘されることが多い。
武藤は対中国戦争に対しては拡大積極派であったが、盧溝橋事件当時は地位は作戦課長と低く、A級戦犯として処刑されるほどの責任があったとは考えられない。また対米英開戦には陸軍首脳で最も強硬な反対派であったし、判決文で死刑理由とされたフィリピンの現地での捕虜取り扱いの問題に関しても、前述のように、フィリピン現地の裁判では起訴も逮捕もされていない。
このため東京裁判の七人の死刑囚の中で、広田弘毅と並んで、死刑判決を受けるべき人間ではなかったという意見が多い。
東條英機は判決後武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と意外の感を漏らしたとも言われる。内閣の大臣の選定にまで干渉した?
広田弘毅内閣の組閣の時に、武藤は内閣の大臣の選定にまで干渉したとして横暴な軍部の代表というイメージで語られます。映画などでも話が通じない堅物の人物として描かれたりしています。
しかし、実際は、広田弘毅内閣は、陸軍の若手に人気がなく、内閣打倒を考えている若手を命懸けで説得しましたが、勢いを抑えがたく、思い詰めて、その実情を広田弘毅に伝えただけでした。ただ、その事を当人は弁解しなかったので、横暴な軍人のイメージが定着してしまったと言われています。辞世の句
「霜の夜を 思い切ったる門出かな」
「散る紅葉 吹かるるままの行方哉」
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