「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
陸軍士官学校卒業。陸軍大学校在校中に日露戦争に従軍。参謀本部に出仕。憲兵司令官、陸軍大学校校長、教育総監部本部長などを歴任。
1931年犬養内閣の陸相に就任、斎藤内閣でも留任した。
国体観念や精神主義を説き、皇道派の中心人物として統制派と対立。その後、陸軍大将に昇進。
2.26事件後予備役に編入。第1次近衛内閣、平沼内閣の文相を務める。
戦後A級戦犯として終身刑の判決を受けるが、病気の為、仮釈放された。
荒木は皇道派の先頭に立っている人物であり、青年将校からはカリスマ的存在で崇拝され、期待されていたと言われている。
荒木が陸相になった時、青年将校は荒木なら改革を断行すると期待し、政党や財界はその人気ゆえに青年将校を抑えることが出来ると期待した。その両方に板挟みになり、両方を満足させることが出来なかった為に没落したと言われている。経緯
荒木は旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。
陸軍士官学校卒業後は、近衛歩兵第1連隊に配属され、第16代連隊旗手をつとめる。1907年には、陸軍大学校を首席で卒業。第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任する。
荒木は第6師団長から教育総監部本部長に昇進する。
この頃の荒木の人気は凄まじく、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。
一時は首相候補としても担がれたが、荒木自身の反対などで頓挫している。
犬養内閣では、陸軍大臣に就任。
荒木の人事は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を東京の第1師団に集めた。この後、荒木・真崎の取り巻き連を皇道派と呼び、それに対抗する勢力を統制派と呼ぶようになった。荒木人事の凄まじさに、「清盛の専横」とか「驕る平氏も久しからず」という恨みの言葉がささやかれるほどであった。
しかし、過激青年将校に自重を求める荒木の人気は下降し、次第に四面楚歌に追いやられるようになった。自分で育て、利用してきた過激青年将校たちを、制御できなくなったのである。
1934年に陸軍大臣を辞任。
1936年の2.26事件の後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。
しかし、1938年に第1次近衛内閣の文部大臣に就任。「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。
東京裁判
戦後は皇道派という思想のトップであり、思想面での活動が問題視されA級戦犯として逮捕。巣鴨プリズンに拘置された。
裁判では堂々とした態度で、非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェブ裁判長から注意されたこともあった。判決時にはモーニング姿で被告席に現れたと言われる。
終身刑の判決を受ける。
1955年に病気のため仮出所し、その後釈放。間もなく健康を回復。
以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。人物像
陸軍大尉の菅波三郎が荒木のことを「 荒木貞夫という将軍は、明治以来の軍人のなかで全く異色の人であった。 頭脳明晰、博識多才、能弁で説得力があったから人を惹きつけた。 しかも誰にでも胸襟を開いて赤心を吐露したから、その門を訪れる人が多かった。 昭和六年の内外多事の秋、この人をこそと青年将校たちに崇拝され、期待されたのである。」と評している。
また、青年将校と友達感覚で接しており、20歳前後の者に呼び捨てで呼ばれてもニコニコして上機嫌だったとも言われている。ゆえに人が集まり、朝まで痛飲することも多かったことでも知られる。
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