「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
大東亜戦争時の外交官、外務大臣。
1945年8月、首席全権として降伏文書に調印した。
戦後、東京裁判で東條内閣と小磯内閣で外務大臣だったことから罪に問われ、A級戦犯として禁固7年の刑を受ける。
釈放後、鳩山内閣で鳩山内閣で副総理兼外相となり、1956年、国連総会で全会一致で日本が国連加盟の承認を受けた際、重光は加盟受諾演説で、「日本は東西の架け橋になりうる」と表明し、国連総会に出席していた加盟国の代表団から拍手で受け入れられた。
鳩山内閣の総辞職と共に辞任し、その一カ月後狭心症の発作により急逝した。享年69歳。
経緯
東京帝国大学法学部卒業後、文官高等試験外交科に合格、外務省に入る。
在ドイツ・在英国各公使館書記官、在シアトル領事を経て、各国において日本国公使として勤務していたが、1930年には駐華公使となる。
満州事変が起こった際は、日本の国際的地位の低下を心配し、外交による協調路線によって収めようと奔走。
1932年の上海事変には、欧米諸国の協力の下、中国との停戦交渉を行う。
何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う。
重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」と語り、事件の7日後、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。
このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎も、後に外相、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。
第1次上海事変を中国が国際連盟に提訴したことを引金に、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案(リットン報告書)が 賛成42ヵ国 対 反対1ヵ国(日本) で採択された。
これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。
重光は、白人によるアジア支配は問題とされないことに疑問を呈し「欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残している。
その後、駐ソ公使、駐英大使を歴任。特に日英関係が悪化する中での関係好転や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだった。
その重光が欧州戦争に「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにもかかわらず日本政府は聞き入れず、松岡洋右外相(第2次近衛文麿内閣)が日独伊三国同盟を締結し、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。
大東亜戦争が始まった際には、「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と述べている。
大東亜戦争
東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。
東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、しかしながら、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年11月の大東亜会議を開くために奔走。
人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。東京裁判
敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受ける。
重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。
外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、重光が第二次世界大戦中に東條内閣、小磯内閣で外務大臣を務めたことに対して、ソ連代表検事が重光の起訴を要求してきた。
GHQは、重光を起訴する意志は皆無だったが、ソ連側の「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」という揺さぶりに屈し、A級戦犯として起訴された。結局、禁固7年の判決を受けた。
日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はソ連を満足させるためのGHQによる政治的妥協であると評する声も多かった。
4年7ヵ月の服役の後、1950年に仮釈放されている。
連合国と日本の講和条約の発効後、講和条約の規定に基づいて、日本政府と極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府との合意により、恩赦により刑の執行を終了した。戦後
重光は講和条約の発効、公職追放解除後は衆議院議員に3回選出された。
1952年に野党首班として内閣総理大臣の座を吉田茂と争い、内閣総理大臣指名選挙の衆議院で2位になる。
1954年、第1〜3次鳩山一郎内閣で第二次世界大戦中の3回に続いて4回目の外務大臣を務めた。
1955年、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。
日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。
しかし、国連の安全保障理事会でソ連に反対され、国連への加盟は出来なかった。
その後、日ソ共同宣言でソ連から日本の国連加盟の内諾を得、1956年に国連総会は加盟76か国の全会一致で日本の国連加盟を承認した。
重光は日本の国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で、「日本は東西の架け橋になりうる」と表明し、国連総会に出席していた加盟国の代表団から拍手で受け入れられた。
帰国前の鳩山内閣の総辞職で重光も辞任した。日本への帰途、「もう思い残すことはない」と語ったと言われる。
それから一カ月後、狭心症の発作で急逝した。享年69歳。エピソード
重光の片足はなく、義足である。
これは、1932年上海で天長節の式典に参加した時に、朝鮮人・尹奉吉に爆弾を投げつけられて無くしたものである。
爆弾を投げ込まれたその時、檀上で天長節を祝う国歌斉唱中だったので動くのは不敬であるとして重光は動かなかったという。
また動かなかったのは重光だけではなく、檀上にいた白川義則司令官、野村吉三郎司令官、植田謙吉師団長など全員が直立したまま国歌を歌い続けた。
そして、白川死去、重光片足切断、野村右目失明、植田足指切断の傷を負った。
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