「東京裁判を、21世紀に多くのアジア諸国が見直して、第2回東京裁判が開かれる。(中略)A級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。」
木戸孝允の甥っ子の子供。昭和天皇の側近の一人として東條英機を首相に推薦するなど太平洋戦争前後の政治に関与した。
敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、東京裁判において終身刑となったが後に仮釈放された。
経緯
京都帝国大学法学科卒業後、農商務省へ入省。その後、農商務省が分省した際に商工省に所属した。
工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。
父の死去に伴い、1917年、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任した。
商工省では臨時産業合理局第一部長兼第二部長を務め、吉野信次と岸信介が起案した重要産業統制法を岸とともに実施した。1930年に、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。
1936年、226事件の処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、中央政治に関与するようになる。1937年の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、1939年の平沼内閣で内務大臣を歴任。
文部大臣兼厚生大臣として1940年に開催予定であった東京オリンピックの開催権返上を決定したのが木戸である。
1940年から1945年に内大臣を務め、昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、政界をリードした。親英米派でも自由主義者でもなかったが、親独派として知られた。
几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。西園寺が首班指名を辞退したのちは、木戸が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着、終戦直後にいたるまで後継総理の推薦には木戸の意向・判断が重要となる。
開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、日米交渉の行き詰まりによって第3次近衛内閣は1941年に総辞職した。
近衛前首相と木戸が話し合い、東条を後継内閣首相にすることを決めた。
周りから東久邇宮稔彦王を首相に推す声も強かったが、当時既に対米戦争の開戦を避けることが出来ないのを知っていたのと、戦っても敗北は必至であると考えられており、皇族が開戦時の首相では問題になると考えられ、東条が首相に推された。
また、対米開戦を主張する陸軍を抑える為には、現役陸軍大臣で実力者である東條を使うしかなく、また東條の昭和天皇に対する忠誠心は非常に強いので、首相になれば天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろうとの考えも強かった。
大東亜戦争初期こそ東條内閣を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。
東條内閣、小磯内閣の総辞職を経た戦争末期には、重光葵と2人で終戦工作に取り組み、1945年6月には和平方針案の「木戸試案」を作成、鈴木貫太郎内閣の面々や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物の一人として動いた。
徹底抗戦を主張する陸軍に「木戸試案」を納得させたことで和平への動きは大きく高まることになった。
徹底抗戦派から狙われ、自宅を焼き討ちにされたりもしている。東京裁判
戦後、東京裁判では、戦争に対して明確に反対しなかったことからA級戦犯として終身刑の判決を受けた。昭和天皇を擁護するあまり、軍部に対して不利な証言が多く、軍人被告からは激しい怒りを買っている。
1955年に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退する。
1969年、傘寿の際には、昭和天皇から賜杖を下賜されている。
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